表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
パグ日記〜俺とパグの同居日記〜  作者: 水前寺鯉太郎
第1部

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/41

第1話

 二〇二六年一月一日。幕開けは、皮肉なほどに雲一つない青空だった。

 二十五歳、独身。広島市内の文具メーカーで働く冴えない営業マン。それが俺、浅野の肩書だ。実家を離れて数年が経ち、それなりに仕事の要領も掴めてきたけれど、今年の正月を「仕事が忙しい」という定型句でパスしたアパートの部屋は、どうしようもなく静まり返っていた。

 テレビから流れるニューイヤー駅伝の歓声を、寂しさを紛らわせるためのBGM代わりにして、俺は目的もなくスマートフォンの画面を指先でなぞる。SNSを開けば、地元の友人たちが神社で初詣をしている写真や、家族で御節を囲む幸福な光景が嫌でも目に入った。

「……何やってんだ、俺」

 ぽつりと呟いた言葉は、冷えたワンルームの空気に吸い込まれ、霧のように消えた。

 何かを変えたい。そんな人生を根底から覆すような大それた野望ではない。ただ、自分のためだけに点け、自分のためだけに帰るこの無機質な空間に、別の温もりが欲しかった。自分のためではなく、誰かのために生きる「理由」が、渇ききった胸の奥で音を立てていた。

 気づけば、俺はコートを羽織り、近所の大型ショッピングモールへと足を運んでいた。

 正月早々、店内は福袋を抱えた家族連れやカップルたちで賑わっている。きらびやかなガラスケースが整然と並ぶ一角は、そこだけが別世界のように華やいでいた。人気の犬種たちが短い尻尾をちぎれんばかりに振り、愛くるしい声をあげてガラス越しに愛嬌を振りまいている。

 誰もが「可愛い!」と声を上げるその喧騒の中で、一番奥の、少し陽当たりの悪いケージに、明らかに毛色の違うやつがいた。

 フォーン。少し泥のついた食パンのような、あるいはよく焼けたトーストのような、温かみのある薄茶色。

 他の子犬たちが「僕を見て!」と全力でアピールしているというのに、そいつはケースの隅で、クシャッと潰れた顔をさらに縮めて丸くなっていた。新年の熱気から隔離されたように、そいつだけが「虚無」を決め込んでいる。まるでコタツから一歩も出たくないおっさんのようだ。思わずクスリと笑いが漏れる。

 だが、俺がガラスの前にしゃがみ込み、視線を合わせる――その刹那。

 そいつは「フゴッ」と短い鼻を鳴らし、のそりと顔を上げた。

 こぼれ落ちそうなほど大きな黒い瞳。そして額には、生後数ヶ月とは思えないほど深く、人生の苦労をすべて背負い込んだようなシワが刻まれている。お世辞にもスマートとは言えない。だけど、その哀愁と愛嬌が奇跡的なバランスで同居する佇まいに、俺の心は一瞬で射抜かれた。

「その子、パグの男の子なんです。すごくおっとりしていて、かなりの食いしん坊なんですよ」

 足元に気配を感じて見上げると、店員さんが柔らかな笑みを浮かべていた。

「抱っこ、してみますか?」

「え……あ、はい。お願いします」

 心の準備もままならないまま、ガラスの扉が開けられる。店員の手から腕へと引き渡されたその生き物は、見た目のコンパクトさからは想像できない、中身の詰まった命の重さがあった。密着した小さな温かい塊から、トクトクと、しかし驚くほど力強い心音が掌に伝わってくる。

 そいつは、俺の顔をじっと見つめた。人間の言葉をすべて理解しているような深い眼差し。かと思った次の瞬間、ペロッと俺の顎を大胆に、そして盛大に舐めあげた。

 ぬるりと湿った、マヌケな柔らかさ。それとともに、俺の胸の奥に澱のように溜まっていた冷たい塊が、綺麗に溶けていくのを感じた。

「……この子にします」

 口が勝手に動いていた。

 提示された見積書の金額に目玉が飛び出し、クレジットカードを差し出す手が震えた。夏のボーナスまで完全に吹き飛ぶ額だ。明日からノルマを死ぬ気でこなさなければならない。だが、もう後戻りをするつもりはなかった。

 そこからの手続きは、怒涛のようだった。マイクロチップ、ワクチン接種の説明、命を預かることへの誓約。幾度もサインを重ね、ようやく解放された時には、時計の針は二時間も進んでいた。

 帰り道、両手には巨大なサークルの箱と、トイレシートやフードの詰まった大袋。胸元のキャリーバッグからは「フゴ、フゴ」と壊れた加湿器のような鼻息が漏れている。正月の大通りを、重労働のごとき大荷物を抱えて汗だくで歩く俺の姿は、さぞ滑稽だったに違いない。

 アパートへ帰り着くと、息を整える間もなくサークルを組み立てた。説明書と格闘すること三十分。ようやく完成したケージの中にシートを敷き、そいつをそっと中に入れる。

 見知らぬ環境に怯えて鳴くか――そう思ったのも束の間、大福はフンフンと床を嗅いだかと思うと、突如としてシートを前足で激しく引き裂き始めた。

「あっ、こら! ダメだ、大福!」

 慌てて手を伸ばした俺をよそに、そいつは「フハッ」と短く息を吐き、散らかった破片の上でコテッと横たわった。そして、自分の運命をすべて受け入れたように、すぐさまスースーと寝息を立て始めたのだ。暴れるだけ暴れて、急に電源が切れる。どこまでもマイペースで、大物だった。

「今日からよろしくな、大福」

 丸くて、白くて、甘いものが詰まっている。俺のこれからの人生に、たくさんの甘さと癒しを詰めてほしい。そんな願いを込めた名前だ。散らばったトイレシートを拾い集めながら、俺は深い溜息とともに、温かな苦笑を漏らした。

 こうして、浅野と、フォーンのパグ・大福の二人暮らしが始まった。

 まだ慣れない手つきで、俺は不細工な寝顔をスマホで撮影する。この日記は、俺が一人前の「飼い主」になるための記録だ。

 初日からこの有様だ。これからどんな予測不能なドタバタ劇が待っているのか、不安しかない。けれど、破り捨てられたシートを見つめる俺の胸には、確かな灯火が宿っている。

 今夜のアパートは、もうあの凍えるような静けさには戻らない。それだけは、確信していた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ