第10話
二〇二六年一月二十四日。
平日の五日間、オフィスのデスクでキーボードを叩いている間も、スマートフォンの画面の向こうで怯えていたあの黒パグの瞳が、どうしても頭から離れなかった。
一人暮らしのしがないサラリーマンの身で、二匹目を飼うなんて無謀だ。大福だけで手一杯じゃないか。夜中はいびきがうるさいし、お風呂に入れれば大戦争になるんだぞ――。
そうやって何度も自分に冷水を浴びせ、言い聞かせるたびに、あの殺風景なケージの隅で縮こまっていた小さな黒い影が、俺の脳裏をかすめては消えなかった。
結局、俺は平日のうちに意を決してその保護施設へメールを送り、土曜日のこの日、アズサとの面会の約束を取り付けていた。
大福を連れていくことも一瞬考えたが、まだすべてのワクチンが終わっていない子犬を、多くの犬が集まる施設に同伴させるわけにはいかない。同期の佐藤に「ちょっと外せない用事があって」と頼み込むと、彼は「おう、大福に会えるなら喜んで!」と快く午前中から預かってくれた。大福の身の安全と留守番のインフラは万全だ。あとは、俺自身の覚悟だけだった。
普段は広島市内ののろのろ運転しかしないコンパクトカーのハンドルを握る俺の手には、冬だというのに少しだけじっとりとした汗がにじんでいた。慣れない山陽自動車道を西へと走らせること一時間余り。緑に囲まれた小高い丘の上に、その動物保護施設はひっそりと佇んでいた。
車を停めてドアを開けると、冷たい山の風に乗って、遠くからたくさんの犬たちの切ない鳴き声が響いてくる。一歩足を踏み入れるだけで、ここがペットショップのようなきらびやかな商業空間ではなく、命の瀬戸際にある場所なのだと肌で理解させられた。
受付を済ませ、職員の女性に案内されて面会室へと入る。
白くて清潔な、少し広めの個室。パイプ椅子に腰掛け、緊張で喉がカラカラになるのを感じながら待っていると、しばらくしてドアが開き、「お待たせしました、アズサちゃんです」と、職員の女性が一匹の犬を両腕で優しく抱きかかえて入ってきた。
真っ黒な、パグだった。
スマートフォンの画面で見た通り、光沢のある、吸い込まれそうなほど綺麗な黒毛。だけど、実物は写真で想像していたよりもずっと小さく、そして痛々しいほどに華奢だった。
「こちらがアズサちゃんです。推定で二歳前後なのですが、狭い繁殖場のケージの中にずっと閉じ込められていたので、運動量が足りず、普通の二歳よりもかなり小柄なんです。筋肉もまだ全然ついていなくて……」
職員さんが、アズサを床にそっと下ろした。
アズサは硬い床に着地した瞬間、ビクッと小さな身体を大きく震わせた。そして、職員さんの足の隙間に滑り込むようにして身を隠し、そこからじっと、上目遣いでこちらを窺うように見上げてきた。その丸い瞳は、激しい不安で小刻みに揺れている。
大福なら嬉しくてちぎれんばかりに振るはずの、パグ特有のくるりと巻いた尻尾が、完全に後ろ足の間に巻き込まれ、ペタッとお腹に張り付くようにして隠されていた。
人間に対しても、この面会室という空間に対しても、どう接していいのか分からないといった様子だった。声をかけようと俺が少しだけ身を乗り出すと、それだけでアズサは額のシワを限界まで寄せ、かすれた声で「くぅん……」と悲しげな声を漏らしてさらに身を縮めた。
俺はそれ以上動くのをやめ、少し離れた場所に静かにしゃがみ込み、視線を同じ高さに合わせた。
脳裏に、我が家でふんぞり返っているフォーン色の怪獣の姿が浮かぶ。
あの日、ペットショップの綺麗なガラスケースの中で、何の疑いもなく俺の顎を大胆に舐めあげてきた大福。今では俺のベッドを占領し、原付バイクのような大音量のいびきをかき、おやつを求めて狂ったように踊る、愛されることを百パーセント信じ切っている大福。
一方で、冷たく暗い檻の中で、ただ怯えて、子供を産むためだけの道具として過ごしてきたアズサ。
同じ「パグ」という犬種なのに、生まれ落ちた環境の違いだけで、二匹の佇まいにはあまりにも残酷な、胸を抉られるような差が生まれていた。
アズサは職員さんの足元から、じっと俺の顔を見つめていた。その大きな、だけど光を失いかけた瞳と視線が、真っ直ぐにぶつかった瞬間だった。
俺の腹は、完全に決まった。
無茶だろうがキャパオーバーだろうが、知るか。そんなものは、俺がもっと必死に働いてカバーすればいいだけの話だ。
この怯えた真っ黒な影を、我が家に連れて帰りたい。そして、大福のように「自分が世界で一番可愛くて、世界で一番愛されている」と、何の不安もなくお腹を出して豪快にいびきをかいて眠れるくらい、絶対的な安心に満ちた場所に、俺の手で変えてやりたい。
「あの……」
俺は乾いた喉を強引に潤すように唾を飲み込み、職員さんを真っ直ぐに見上げた。
「この子の、里親の申請をさせてください。俺に、この子を家族にさせてください」
職員の女性は一瞬驚いたように目を見開いたが、俺の目の中に宿る本気を感じ取ったのか、すぐに深く、優しく頷いてくれた。
山の上の静かな面会室。
こうして、俺と、まだ見ぬ黒いパグとの運命が、静かに、だけど一本の確かなリードで繋がり合おうとしていた。アパートで俺の帰りを待っているであろう大福の、威勢のいい鼻息が、今だけは遠くから俺の背中を力強く押してくれているような気がした。




