第11話
二〇二六年二月一日。
山の上の施設での運命的な面会から、一週間。
一人暮らしの男の勤務体制や収入、飼育環境に関する厳格な書類審査をなんとか無さに通過し、本日、ついにアズサの「二週間のトライアル期間」が始まった。
要するに、我が家の環境や、先住犬である大福との相性を確かめるためのお試し同居だ。もしここで、お互いを噛み傷だらけにするような致命的な問題が起きれば、アズサは施設へ戻ることになる。
施設のスタッフさんを見送った後の俺のワンルームアパートには、この一週間の間に急遽ネットで買い足した二個目のケージが鎮座していた。ただでさえ手狭なリビングに、巨大な檻が二つ。俺の生活スペースは完全に侵食され、部屋の空気はピリピリとした独特の緊張感に支配されていた。
当の黒パグ・アズサはというと、キャリーケースから這い出てきた瞬間から、完全に石のように固まっていた。新しいケージの一番奥、クッションの隙間にこれ以上ないほどみっちりと体を挟み込み、額のシワをこれでもかと寄せて「……ここは、どこだ」と言いたげな、怯えと戸惑いの混ざった瞳でこちらをじっと窺っている。
だが、そんな張り詰めたガラスのような空気を、一瞬で、それも粉々にぶち壊したやつがいた。
我が家の先住犬――フォーン色の暴走怪獣、大福である。
「フゴッ!? フガガガガッ!」
リビングにアズサが入ってきた瞬間から、大福はサークルのプラスチック製フェンスにクシャクシャの鼻を限界まで押し付け、シュコー、シュコーと歪んだアイドリング音を響かせてアクリル板を白く曇らせていた。そしてロックを外して解放された途端、アズサのケージの前へと文字通りすっ飛んでいき、ちぎれんばかりに短い尻尾をブンブンと振り始めたのだ。
どうやら大福の脳内には、これが「我が家の命運をかけた、アズサのリハビリを兼ねた厳粛なトライアル」だという事実は一ミリも入っていないらしい。ただ単純に、本能のままに理解しているのだ。
(なんか、俺と形がそっくりな、黒くて丸い仲間が増えた! やったー! 遊び相手だ!)と。
大福は一度自分のサークルへと猛ダッシュで引き返すと、お気に入りの、よだれがたっぷり染み込んだロープのオモチャを興奮気味に咥えて戻ってきた。そして、それをアズサのケージの柵の前にポイと落とした。
それだけにとどまらず、前足を床に思い切り叩きつけるようにして、前半身を低く、お尻を高く突き上げる姿勢をとった。犬が「遊ぼうぜ!」と親愛を伝える最大のアピール、いわゆる『プレイバウ』のポーズだ。大福はそのまま、お尻を左右に激しく振って謎の歓迎ダンスを踊り始めた。
しかし、アズサは完全に引きまくっていた。
目の前で突如として始まった、フォーン色のガツガツした肉塊による猛烈な歓迎プロモーション。狭い檻の世界しか知らなかったアズサにとって、大福の天真爛漫さは、もはやポジティブなものではなく、ただの「理解不能な脅威」でしかないようだった。アズサはケージの壁にさらに背中を押し付け、小さな体を限界まで縮めながら、「ヒゥン……くぅん……」と情けない悲鳴を漏らした。
それを見た大福は(おや? 距離が遠くて聞こえなかったのかな?)とでも前向きに解釈したのか、さらにアズサのケージの柵を前足で「ガシガシガシ!」と激しく叩き、ハァハァと楽しげに舌を出してアピールを続行する。
「おい大福、やめろ! 完全に空回りしてるぞ! お前の熱量が強すぎてアズサが余計に怯えてるじゃないか」
俺は興奮して床にステップを踏んでいる大福のお腹を慌てて抱え上げた。引き離された大福は、空中でもなお「フゴフゴ!」と鼻を鳴らしながら、四本の足をバタバタと動かしてアズサに向かって『空中平泳ぎ』のような間抜けなダンスを続けていた。腕の中でジタバタと暴れる大福を強引に自分のサークルへと戻し、鍵をかける。
気がつけば、リビングの時計は夜の九時を回ろうとしていた。
アズサはケージの奥に引きこもったきり、用意したふやかしフードには見向きもせず、水さえ一口も口にしていない。
スマートフォンで調べた『犬の環境変化による絶食は低血糖などの危険がある』というネット記事の警告が脳裏をよぎり、俺の背中にじわりと冷たい汗が流れる。対する大福は、自分の分のご飯を一瞬で完食し、アズサの残した皿を柵越しにギョロリと睨みつけている。不穏、そしてカオスだった。
「……とりあえず、後で佐藤に電話してみよう」
ミニチュアダックスを溺愛する職場の同期であり、犬飼いとしては遥か先を行く先輩の佐藤なら、このフォーンと黒の凸凹なパグたちのディレンマについて、何か実用的なアドバイスをくれるはずだ。
夜の静寂がアパートを包み込む。
いつものワンルーム。しかし今夜は、フォーンと黒、二つの丸い影が並んでいる。
俺の、そして我が家の命運をかけた、長くて不器用な二週間の戦いが、今静かに幕を開けた。




