第12話
二〇二六年二月二日。
黒パグ・アズサのトライアルが始まって、二日目の朝。
世間は無慈悲にも、新しい一週間の始まりである月曜日を迎えていた。
昨晩、パニック状態の我が家のカオスっぷりに耐えかねて同期の佐藤に泣きつき、「最初は無理に近づけず、ケージ越しで見守れ。犬同士の距離感に人間が焦って介入するのが一番マズい」と的確なアドバイスをもらった。俺はその教え通り、二つのケージの間にパーテーション代わりの段ボールを挟み、互いの視線がぶつかり合わないようインフラを整えた。
極度の寝不足でバサバサになった目をこすりながら、会社へ行く準備を進める。先住犬の大福は、サークルの柵にへばりついて、隣の黒いケージを気にしてソワソワと鼻を鳴らしている。肝心のアズサは、昨日よりはほんの少しだけ脱力したものの、やはりケージの隅のクッションに身を隠し、静かにこちらの様子を伺っていた。まだお水すら満足に飲んでいない。
そんな張り詰めた朝の空気を切り裂くように、ピンポーンと部屋のインターホンが鳴り響いた。
こんな出勤前の忙しい時間に一体誰だ、と首を傾げながらドアを開けると、そこに立っていたのは、このマンションの大家さんだった。定年を過ぎた、いつも品のある三つ揃えのスーツを着こなしている老紳士だ。
「おはよう、浅野くん。朝早くにすまないね。今月の更新書類の件で、一部確認したい箇所があってね。……おや?」
大家さんは手にしたバインダーからふと目を上げ、俺の肩越しにリビングの奥の光景を捉えた。そこに並んだ二つのケージ、そしてフォーンと黒の、二つの丸い頭を見つけた瞬間、老紳士の穏やかな目がパッと子供のように輝いた。
「まぁ、可愛い。黒いパグちゃんじゃないか! どうしたんだい、新しく迎えたのかい?」
本名で呼ばれて一瞬サラリーマンの顔に戻りかけた俺だったが、靴を脱ぐ間も惜しんで、「実は、保護施設から昨日トライアルで迎えたばかりなんです」と経緯を説明した。すると大家さんは我がことのように何度も深く頷き、皺の刻まれた目元をいっぱいに緩めて、嬉しそうに相好を崩した。
「それは素晴らしいことだ。浅野くん、ぜひ、ゆっくりと時間をかけて、我が家に馴染ませてあげてください」
そもそも、このアパートが「ペット可」という、一人暮らしの犬好きにとって砂漠のオアシスのような神物件なのは、他ならぬこの大家さんの強い意向によるものだった。大家さん自身が筋金入りの熱烈な犬好きだからこそ、若い店借人にも犬と暮らす豊かさを知ってほしいと、この環境を作ってくれたらしい。本当に足を向けて寝られない。
大家さんの話によると、ご自宅では現在、なんと三匹の犬を同時に飼育しているのだという。多頭飼いの、大先輩だった。
「うちはね、ふわふわのポメラニアンと、真っ白なスピッツ。解して最後の一匹が、なんと『黒のペキニーズ』なんだよ」
「黒の、ペキニーズですか」
「そう。ペキニーズの顔立ちがね、またパグちゃんに少し似ていてね、クシャッと潰れていて本当に愛くるしいんだ。特に黒い毛並みというのは、お日様の光が当たると、まるで極上のビロードみたいに本当に綺麗に輝くからね。アズサちゃんも、今は少し毛艶が落ちているようだけど、浅野くんのところで美味しいご飯を食べて安心すれば、きっと見違えるほど美しくなるよ」
極上のビロード。
大家さんのその言葉を聞きながら、俺はケージの奥でまだくすんだ黒い背中を丸めているアズサを盗み見た。いつか、俺の手であの背中を、世界一綺麗なビロードにしてやる。胸の奥で、静かにそんな誓いが頭をもたげた。
大家さんはそれ以上アズサを刺激しないよう、ケージからかなり離れた玄関口の場所から、ただ優しく微笑みの視線を送っていた。その適度な距離感の取り方に、犬の扱いを本当によく分かっているベテランの風格が漂う。アズサも、大家さんの穏やかで低い声のトーンに安心したのか、張り詰めていた耳の力を少しだけフッと抜いたように見えた。
「多頭飼いは、最初の一ヶ月こそ人間側も大変だけど、犬同士の間に小さな社会ができると、見ていて本当に飽きないからね。何か困ったことがあれば、夜中でもいつでも、大家の私に相談に乗らせてください」
一人暮らしの孤独なワンルームに、これ以上ないほど心強すぎる言葉を残して、大家さんは上品に会釈をして去っていった。
アパートの廊下に響く大家さんの規則正しい足音を見送る。ふと足元を見ると、大福が「今のじいちゃん、ドッグフードの良い匂いがしたな」とでも言うように、俺のスーツのズボンの裾にフゴフゴと鼻を押し付けていた。
佐藤からの昨晩の電話。臨機応変なアドバイス。そして、朝一番の大家さんからの心からの激励。
俺と二匹のパグの生活は、決してこの閉じたワンルームで孤立しているわけじゃない。社会の温かい目や、たくさんの犬好きの大人たちに見守られているんだと思うと、ガチガチに強張っていた俺の肩の力が、少しだけ抜けるのを感じた。
「よし、大福。アズサ。お留守番頼むぞ」
大福のカリカリ代と、アズサを正式に我が家の家族として迎えるための準備資金。それを稼ぐためなら、月曜朝の満員電車の凄まじい押し合いなど、あのパグたちの狂乱に比べれば、ただの小気味いいもみ合いに過ぎない。
俺は一週間ぶりにネクタイをきゅっと締め直し、少しだけ誇らしい足取りで、自分のデスクが待つオフィスへと向かった。




