第13話
二〇二六年二月六日。
黒パグ・アズサのトライアルが始まって、数日。
今日は金曜日だが、俺は前々から申請していた有給休暇を使い、朝から一歩もアパートを出ずに二匹の様子を見守っていた。少しずつだが、アズサがケージの外へのそのそと出てくる時間が増え、我が家の凸凹な距離感にも変化の兆しが見え始めている。
そんな昼下がり、俺たち一人の男と二匹のパグは、同じマンションの最上階にある大家さんのご自宅にお邪魔していた。
「浅野くん、狭いワンルームにこもっていてはアズサちゃんも気が詰まるでしょう。今日は佐藤くんも有給を合わせたそうだし、うちのプライベートバルコニーで『犬茶会』でもしませんか」という、大家さんの粋な計らいによるものだ。
大家さんの部屋のルーフバルコニーには、見事な人工芝が敷き詰められていた。不特定多数の犬が集まるドッグランは、ワクチン未完了の大福や、まだ健康状態が万全ではないアズサには絶対に無理だが、大家さんが飼っている犬しか出入りしないこの安全な私有地なら、安心して遊ばせることができる。
「さぁ、みんな自由にしていいよ」
大家さんの優しい声とともに、貸し切り状態の人工芝の上に、総勢六匹の犬たちが放たれた。
「フガガガッ! フゴーッ!」
大福は水を得た魚のように短い足を回転させ、佐藤の愛犬であるミニチュアダックスのあとを追いかけて、猛烈なダッシュを開始した。犬の年齢としては佐藤のダックスの方が遥かに先輩なのだが、大福の「遊ぼうぜ!」の熱量に根負けしたのか、上手に大福をあしらいながら追いかけっこに付き合ってくれている。
一方で、アズサはというと、やはりまだ少し緊張しているのか、大家さんの愛犬である「黒のペキニーズ」のドシリとした落ち着いた佇まいに安心感を覚えるらしい。その影にぴったりと寄り添うようにして、トコトコと小さな歩幅で歩いていた。
毛色の同じ漆黒の二匹が並んで歩く姿は、なんだか小さな黒いビロードの絨毯がもぞもぞと動いているようで、胸が締め付けられるほどの愛らしさだった。
俺たち三人は、折りたたみ式のガーデンチェアに腰掛け、愛犬たちの様子を目で追いながら、大家さんが淹れてくれた温かいコーヒーを片手に、すっかり尽きることのない犬談義で盛り上がっていた。
「いやぁ、それにしても浅野くん。犬を飼い始めると、男の生活なんてものはガラリと変わってしまうよね」
大家さんがマグカップを傾け、目を細めて柔らかく笑う。
「実はね、私は現役でバリバリ働いていた頃、一日に二箱は消費するほどのかなりのヘビースモーカーだったんだよ。でもね、この子たちを順に迎え入れてから、ある日ピタリとタバコをやめてしまったんだ。犬の嗅覚というのは、人間の何万倍、何十万倍もあるからね。部屋に残る微かな匂いや、服に染みついた煙の成分が、この子たちの呼吸器にとってどれほどのストレスになるかを考えたらね……不思議と、吸いたいという気持ちそのものが、綺麗に消え失せてしまったんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、俺は胸の奥を小さな針で突かれたような気がして、思わずギクリとした。コートの右ポケットの中にある、お気に入りのシガレットケースの硬い感触に、そっと指先が触れる。かつて愛したコイーバやモンテクリストの、あの濃厚で芳醇な紫煙の香りが、かすかに指先に残っているような錯覚すら覚えた。
「そういえば」
隣でコーヒーをすすっていた佐藤が、ニヤニヤとした意地の悪い笑みを浮かべて俺の顔を覗き込んできた。
「お前も職場の喫煙所で、よく美味そうに紫煙をくゆらせてるもんな。家じゃあ、どうしてんの?」
俺は苦笑いを浮かべ、降参するように首を振った。
「いや……さすがに大福を迎えてからは、部屋の中じゃ絶対に火をつけないって決めてるよ。吸うときは必ず換気扇の下かベランダだし、部屋に戻る時は必ず上着を外ではたいて、手洗いとガラガラうがいを徹底してる。それでも、大家さんの話を聞くと、まだまだ甘いなって痛感するけど……」
「だろうな。それにパグ相手に室内喫煙なんて自殺行為だろ。ただでさえ短頭種で気道が狭いんだから。お前のタバコの煙なんか吸わせたら、大福のあの真夜中の原付アイドリングいびきが、大型トラックの爆音に進化しちまうぞ」
「勘弁してくれ。これ以上夜中にうるさくなったら、俺の精神が崩壊する」
佐藤の容赦のない軽口に、大家さんも「ははは、それは確かに社会人生命に関わるね。浅野くんの対策は十分に賢明だよ」と声をあげて快活に笑った。
ふと足元に視線を落とすと、ダックスとの大激戦に満足した大福が、興奮で少しヨダレのついた鼻をフゴフゴと鳴らしながら帰ってきた。そして俺の足元へとドサリと体重を預け、まるで一仕事を終えたベテランサラリーマンのような深い引き際のため息を、フシューッと盛大に吐き出した。
アズサもまた、少し離れたペキニーズの横からではあったが、大きな黒い瞳で、じっと俺の姿を目で追っていた。その瞳には、我が家にやってきた初日のような、怯えきった光はもうなかった。
愛犬の健康のために、自分の長年の習慣や嗜好を変える。
それは、非喫煙者から見ればただの「我慢」や「制限」に映るのかもしれない。けれど、言葉を持たないこの小さな命を病気から守り、健やかに育てるという責任を背負った俺たちにとっては、それは少しも苦ではないのだ。むしろ、飼い主としてのささやかな「プライド」であり、喜びですらある。
二月の冷たい海風が、バルコニーの柵をすり抜けて頬を打つ。
けれど、手の中にあるコーヒーの温もりと、足元でフゴフゴと小さく寝息を立て始めた犬の重みが、俺の胸の奥を、どこまでも優しく、温かく満たしてくれていた。




