第14話
二〇二六年二月七日。
土曜日の午後。俺は愛車のハンドルを握り、少し離れたバイパス沿いにある大型ディスカウントストア、通称『ドンキ』へと向かっていた。
目的は、大福とアズサの新しいおやつ、そしてこれから必要になるであろうケア用品の買い出しだ。
アズサのトライアル期間も中盤に差し掛かり、我が家の凸凹コンビのパワーバランスも少しずつ落ち着きを見せ始めていた。昨日の大家さんのバルコニーでのお茶会を経て、アズサがほんの少しだけ心を開きかけているのを感じた俺は、現金なもので、もっとあの黒い怪獣を喜ばせてやりたいという物欲に支配されていた。
ドンキの広大なペット用品売り場で、俺は凄まじい種類のオモチャやフードの前に立ち尽くしていた。
以前なら見向きもしなかった「無添加ササミジャーキー」や「パグ用・歯磨きガム」といったパッケージを真剣に裏返しては、成分表を確認する。天真爛漫な大福には、ストレス発散になる長持ちするガムを。まだ胃腸の調子が万全ではないアズサには、消化に優しいフリーズドライの納豆を。
気がつけば、買い物カゴは犬用のアイテムだけでパンパンに膨れ上がっていた。
「よし、待ってろよ、お前ら」
大きなレジ袋を両手に抱え、車を走らせてアパートへと帰宅する。
ペット可物件である我が家の古びた廊下を、荷物の重さに腕を引っ張られながら歩き、自分の部屋のドアの前にたどり着いた、まさにその時だった。
ガチャリ、と静かな廊下に硬いラッチ音が響いた。音の出所は、俺の部屋のすぐ真隣――二〇二号室のドアだった。そこから、一人の女性が、小さな生き物を両腕で大切そうに抱きかかえて出てきた。
俺は思わず、その場で足を止めた。
仕立てのいいロングコートに身を包み、髪を後ろで綺麗にまとめたその女性の顔に、見覚えがありすぎたからだ。
「え……門脇、さん?」
「あ……っ、エースさん!?」
彼女は目を丸くして、驚いたように小さな声をあげた。
門脇さん。我が社の経理部に所属する、いつも沈着冷静で、エクセルの数字のミスを寸分の狂いもなく指摘してくることで有名な、社内の誰もが少しだけ背筋を伸ばして接する優秀な女性社員だった。そんな彼女が、まさか俺の真隣の部屋に住んでいたなんて、今の今まで夢にも思わなかった。
いや、それ以上に俺の視線を奪ったのは、彼女の腕の中にすっぽりと収まっている、小さな小さな「黒い影」だった。
光沢のある、ブラックタンの滑らかな毛並み。大きな、こぼれ落ちそうなほどのうるんだ瞳。ピンと立った大きな耳。ロングコートのチワワだった。体重はせいぜい一キロか二キロといったところだろうか。我が家のずっしりとしたパグの塊に比べれば、まるでガラス細工のように繊細に見えた。
門脇さんは、腕にずっしりと食い込むドンキの大きなレジ袋から、チラリと覗いているカラフルな犬用おやつのパッケージに目を留めたようだった。彼女のいつもの「経理部の冷徹な面持ち」が、一瞬にしてふにゃりと柔らかい、優しい笑顔へと溶けていく。
「おやつ、ってことは……もしかしてエースさん、ワンちゃんを飼われてるんですか?」
「ええ、まぁ。腕がちぎれそうになるくらい買い込んじゃいまして」
俺は苦笑しながら、両手の重いレジ袋を一度床に下ろした。
「お恥ずかしい話、今年の頭に始めたばかりの、まだまだ頼りない新米飼い主ですがね」
門脇さんは嬉しそうに、腕の中のチワワの顔を俺の方へと近づけて見せてくれた。
「そうだったんですね! 犬って本当にいいですよね。この子は『ちまき』といいます。女の子で、もうすぐ三歳になるんですよ。ほら、ちまき、ご挨拶して。お隣のエースさんだよ」
ちまきと呼ばれた黒いチワワは、床に置いたレジ袋の匂いを小さな鼻でフンフンと嗅ぎ、それから「ワンッ!」と、鈴を転がしたような可愛らしい高音で一度だけ鳴いた。我が家の「フゴッ」という泥臭い重低音とは、何もかもが違う洗練された響きだった。
「ちまき、か。可愛い名前ですね。よろしくな、ちまき」
「ふふ、ありがとうございます。エースさんのところは、どんなワンちゃんがいらっしゃるんですか?」
「うちは……クシャクシャのパグが、二匹。今、ちょうどトライアル中で、フォーンと黒の凸凹なやつらが部屋で待んでます」
「えっ、パグちゃん! しかも二匹ですか!? 今度、ぜひ廊下で行き合った時にでも会わせてくださいね」
門脇さんはそう言って、心底楽しそうに微笑んだ。会社で見せるあの厳格な雰囲気はどこへやら、そこにはただの、愛犬を溺愛する一人の優しい飼い主の姿があった。
「じゃあ、ちまきの病院の時間なので、これで。また会社でも、犬のお話させてくださいね」
「ええ、気をつけて。行ってらっしゃい」
ちまきを抱えた門脇さんがエレベーターへと向かう後ろ姿を見送り、俺は床のレジ袋を持ち直した。
部屋の鍵を開け、リビングのドアを開けると、「フゴガガッ!」と飢えた怪獣のような音を立てて大福が突っ込んできた。ケージの奥からは、アズサが「おかえり」と言うように、心なしか昨日よりも少しだけ短い尻尾を小さく振ってこちらを見つめている。
しかし、次の瞬間、大福の動きがピタリと止まった。俺の服に残る、ちまきの微かな匂いを察知したらしい。大福はまるで『浮気現場を突き止めた執念深い刑事』のような目付きになり、凄まじい鼻圧で俺のジーンズの裾を掃除機のようにシュコシュコと吸い込みながら、猛烈な臨検を始めた。ジェラシー全開のフガフガが激しい。
会社での人間関係。そして、この古いアパートでの暮らし。
大福とアズサが我が家にやってきてくれたおかげで、俺の世界は、信じられないほどのスピードで温かい繋がりを増やしていく。
「ほら、お前ら、お土産だぞ」
買ってきたばかりのおやつを掲げると、フォーンと黒、二つの丸い頭が同時に上を向いた。その姿を見ているだけで、週末の疲れなんてどこかへ吹き飛んでしまう。俺は優しいパグ臭に包まれた部屋の中で、新しく増えた隣人の犬仲間のことを思いながら、静かに微笑んだ。




