第15話
二〇二六年二月十日。
二週間という時間は、長いのだろうか、それとも短いのだろうか。
黒パグ・アズサのトライアル最終日の夜。俺はアパートのリビングで、ローテーブルに広げられた数枚の公的な書類を前に、一本のボールペンを握りしめていた。
昼間、山の上の施設から我が家へとやってきた女性スタッフさんは、ケージの前に並んだフォーンと黒、二つの丸い頭を見た瞬間、その場で両手を口元に当てて、ポロポロと大粒の涙を流した。
「……信じられない。アズサちゃん、あんなに怯えて人間の目を見ることすらできなかったのに、今はこんなに、浅野さんのことを真っ直ぐに見つめてる。毛艶も、まるで見違えるようです」
スタッフさんの言葉に、俺はこれまでの怒濤の十四日間に思いを馳せていた。
「何事もなく」乗り越えられた、なんて言えば綺麗な嘘になる。
最初の三日間は、環境の変化に怯えたアズサが頑なに断食を決め込み、俺は夜中に何度も目を覚ましては胃薬を飲むような思いでアズサのケージを見守った。
そんな膠着状態を打ち破ったのは、他ならぬ先住犬の大福だった。
大福が自分の皿のカリカリを「フゴフゴフゴッ!」とこれ以上ないほど美味そうに貪り食う姿を、アズサはケージの隙間からじっと見つめていた。そして四日目の朝、大福が食べ終えて満足げにあくびをした瞬間、アズサがおずおずと自分の皿へと歩み寄り、一粒のカリカリを小さな前歯でパチンと小気味いい音を立てて噛み砕いたのだ。あの静かな部屋に響いた小さな咀嚼音。胸の奥がじんわりと熱くなったあの感動を、俺は一生忘れない。
さらに一週間が経つ頃には、大福のあの空気の読めない『プレイバウ』のダンスに対しても、アズサは逃げ出すのをやめ、額のシワを寄せて「……うるさいやつだな」とでも言うように、のそりと鼻を鳴らして応じるようになっていた。
決して、劇的な大恋愛のような仲良しではない。お互いに付かず離れず、適度な距離を保っている。けれどそこには、確かに「この部屋の空気は安全だ」という、二匹の間だけの静かな合意が形成されていた。
「浅野さん、アズサちゃんを、よろしくお願いします」
「はい。責任を持って、俺の家族にします」
スタッフさんを玄関で見送り、静まり返った部屋に戻る。
ローテーブルの上には、正式な譲渡手続きが完了したことを示す契約書。そこには、ネットの海で「サラリーマンA」という匿名性の記号を名乗っていた俺の本名が、一人の『飼い主』としての絶対的な責任とともにカチッと刻まれていた。
フゴッ。
足元で、聞き馴染みすぎた重低音の鼻鳴らしが響いた。
見上げると、大福が「おい、お祝いのカリカリはまだか?」とばかりに、短い尻尾をメトロノームのように振って俺を見つめている。
そして、その少し後ろ――。
黒パグのアズサが、大福の影に隠れるようにしながらも、しっかりと自分の四本の足でフローリングの床を踏み締め、こぼれ落ちそうな大きな黒い瞳で、真っ直ぐに俺の顔を見上げていた。その佇まいには、山の上の面会室で見たあの「世界に謝るような怯え」は、もうどこにも見当たらなかった。
「よし、大福、アズサ。今日から、本当の家族だ。お前たちの、一生分のカリカリ代は、俺が死ぬ気で稼いでやるからな」
俺は床にしゃがみ込み、フォーン色の丸い頭と、漆黒の丸い頭を、両手で同時に思い切りガシガシと撫で回した。
大福は「ブフフッ!」と大喜びで俺の顎を舐めあげ、アズサは一瞬だけ驚いて体をすくめたものの、すぐに諦めたように目を細め、俺の指先の匂いを優しく、本当に優しくペロリと舐め返してくれた。ザラリとした小さな舌の温もりが、俺の指先から心臓へと直接染み渡っていく。
夜の十一時。
リビングの電気を消し、ベッドに入る。
少しして、暗闇の中に、ゴゴゴゴゴ……というお馴染みの「原付バイクのアイドリング音」が響き渡り始めた。大福がヘソ天で爆睡を始めた合図だ。
すると、その重低音に呼応するように、隣のケージから、ズピーーー、ププッ……という、少し高音の、だけど負けず劣らず年季の入ったオヤジのような寝息が重なった。アズサのいびきだ。
ワンルームに鳴り響く、フォーンと黒の爆音大合唱。俺の狭い部屋は、さながら深夜のパグ専用バイクショップと化していた。
睡眠不足の明日の社会人生活を思えば頭が痛くなるような大音量。だけど、俺は枕を耳に押し当てるのをやめ、その不器用で、愛おしすぎる命の演奏に、ただ静かに耳を傾けていた。
あの山の上の面会室で、俺は誓ったのだ。
この怯えた真っ黒な影を、大福のように「自分が世界で一番可愛い」とふんぞり返って眠れる場所に連れて行ってやる、と。
スマートフォンを懐中電灯代わりにして、そっと床を照らしてみる。
画面の向こうのアズサは、自分の新しいベッドのど真ん中で、大福と全く同じ体勢で四肢を天にパッカーンと開き、世界に対して完全に無防備な「ヘソ天」の姿で、盛大にいびきをかいて爆睡していた。
俺の平穏な夜は、これで本当に、永遠に失われることになった。
けれど、この騒がしくて、最高に温かい凸凹な二つの影に挟まれながら、俺はかつてないほどの幸福感に包まれて、ゆっくりと、深い眠りの海へと落ちていった。




