第16話
二〇二六年二月十四日。
世間の男たちがそわそわと落ち着きをなくし、オフィスのゴミ箱の周りがどことなく綺麗になるバレンタインデーがやってきた。
白状しよう。俺はこれまでの人生において、このイベントに微塵も良い思い出がなかった。
学生時代から数年前の会社員生活に至るまで、学校の下駄箱やデスクの引き出しは常にすっからかん。母親からの憐れみの籠もったファミリーパックのチョコや、お情けで配られる義務的なチロルチョコを除けば、女性から「自分のために選ばれたチョコレート」を手渡しで貰った経験なんて、ただの一度もなかったからだ。
だから今日という日も、俺には一ミリも関係のない、ただの忌々しい休日出勤の土曜日のはずだった。
その日の昼休み。
愛妻弁当ならぬコンビニおにぎりを口に放り込み、静まり返ったオフィスで午後のプレゼン資料を眺めていた時のことだ。
「あの……エースさん、ちょっといいですか?」
不意に上から降ってきた鈴を転がしたような声に、俺はキーボードを叩く手を止めて見上げた。
そこに立っていたのは、経理部の門脇さんだった。いつもオフィスでは凛としたスーツを隙なく着こなしている彼女だが、手には小さな、お洒落なペーパーバッグを大切そうに提げている。
「門脇さん。どうしたの、こんな休日に。経理の書類にまた不備でもあった?」
「ふふ、違いますよ。今日はこれ、いつもお隣でお世話になっているお礼です」
そう言って、彼女はペーパーバッグから小さな箱を取り出し、俺のデスクの上にそっと置いた。シックなネイビーのリボンが結ばれた、いかにも上質なビターチョコレートの箱だった。
「はい、これはエースさんの分。……あ、それとね」
門脇さんは悪戯っぽく微笑むと、バッグの奥から、今度は見覚えのあるパッケージを取り出した。それは、犬用の「無添加・長持ち馬皮ガム」の袋だった。ご丁寧に、フォーン色と黒色の丸い犬のシールが、それぞれの袋の端にペタッと貼られている。
「こっちの硬いガムは、大福くんとアズサちゃんの分です。うちのちまきもお気に入りのメーカーのやつだから、きっと喜んでくれると思います」
俺は完全に意表を突かれ、間抜けなほど大きく目を丸くしてフリーズしてしまった。
「え……俺のチョコだけじゃなくて、大福とアズサの分まで?」
「だって、アズサちゃん、無事に正式譲渡になったんですよね? こないだ廊下で行き合った時に、大家さんから聞いたんです。そのお祝いも兼ねて。あ、ワンちゃんにチョコレートは絶対厳禁だから、エースさんのチョコは会社で食べていくか、家では絶対に手の届かない高いところに隠してくださいね?」
経理部らしい、的確で隙のない「リスク管理」のアドバイス。だけど、その言葉の裏にある彼女の底抜けの優しさと、我が家の二匹のパグのことまで等身大に気遣ってくれたその心遣いが、猛烈に、胸の奥を温かくした。
「……ありがとうございます。すごく、嬉しいです。大切に食べます。犬たちにも、今夜必ず渡しますね」
俺が少し耳を赤くしながらチョコレートを受け図ると、門脇さんは「よかった。じゃあ、午後もお仕事頑張りましょうね」と、会社では滅多に見せない柔らかな笑顔を残して、軽やかな足取りで経理部へと戻っていった。
「ヒューヒュー。やるじゃんエース。お前、いつの間に経理部のマドンナとそんなに仲良くなってたわけ?」
背後から、同じく休日出勤をキメていた同期の佐藤が、ニヤニヤしながら俺の肩を肘で突っついてきた。
「バカ言え、ただの犬仲間だよ、犬仲間」
俺は佐藤のからかいを大裟裟に受け流しながら、まるで会社の最高機密書類でも隠すような迅速な隠蔽工作で、デスクの引き出しの最奥にその箱をそっと仕舞い込んだ。
その日の夜。
仕事を終えてアパートの部屋に帰り、リビングのドアを開けると、いつも通りの「フゴガガッ!」という重低音の大合唱が出迎えてくれた。
俺はスーツを脱ぐのもそこそこに床にしゃがみ込み、ドンキのレジ袋ではなく、門脇さんから貰った犬用ガムの袋を二つの丸い頭の前に掲げた。
「ほら、お前ら。お隣のちまきちゃんのママから、バレンタインのプレゼントだぞ」
大福は「オモチャ!? おやつ!?」と目を輝かせてプレイバウのポーズをとり、アズサもまた、短い尻尾をドラムのスティックのように激しくブンブンと振って大喜びした。
それぞれのケージの中にガムを入れてやると、二匹は自分のベッドにドシリと腰を据え、前足で器用にガムを挟みながら、夢中になって「ガリガリ、バキバキ」と小気味いい音を立てて齧り始めた。
二匹が美味そうにおやつを貪る姿を特等席で眺めながら、俺はキッチンで淹れたコーヒーとともに、オフィスから持ち帰った門脇さんのチョコレートをひとかけら、口に運んだ。
カカオの豊かな苦味と、ほんのりとした上品な甘さが、寝不足の身体の隅々にまで優しく染み渡っていく。これまでの人生で、一番美味いチョコレートだった。
フォーンと黒、二つの丸い影が、一心不乱にガムを齧っている静かなリビング。
犬を飼わなければ、絶対に交わることのなかった経理部の門脇さんとの縁。大福とアズサが俺の元にやってきてくれたおかげで、俺の味気なかったサラリーマン生活は、バレンタインのビターチョコのように、少しずつ豊かで深い味わいへと変わり始めていた。




