第17話
二〇二六年二月十六日。
月曜日。
世間のサラリーマンが一斉に満員電車へと足を踏み入れる中、俺はアパートの部屋で、ゆっくりと淹れたコーヒーを喉に流し込んでいた。
先週の土曜日――あの門脇さんから人生初のビターチョコレートを貰ったバレンタインデーは、実のところ容赦のない休日出勤だった。今日はその代休。平日に堂々と休めるというだけで、サラリーマンにとっては極上の贅沢だ。
だが、のんびりとコーヒーを味わっていられる時間は、すぐに終わりを告げた。
今日の俺には、かねてより計画していた重要なミッションがあったのだ。
「よし……大福、アズサ。今日は病院に健康診断に行くぞ」
大福は我が家に来てからの定期検診と、いよいよ完了間近となった最後のワクチン接種のため。そして正式に家族になったアズサは、繁殖場あがりの体にどこか異常がないかを調べるため。二匹揃っての、初めての『犬ドック』である。
俺はクローゼットから、大福用の頑丈なプラスチック製キャリーケースと、アズサ用に新調したばかりのナイロン製の肩掛けキャリーバッグを引きずり出してきた。
リビングのローテーブルの前にそれらを並べた、まさにその瞬間だった。
部屋の空気が、ピキッと凍りついた。
さっきまで「お出かけ!? ドライブ!?」と目を輝かせて尻尾を振っていた大福とアズサが、同時にピタリと動きを止めたのだ。二匹の視線は、フローリングの上に置かれた二つの「カバン」に釘付けになっている。クシャッと潰れた二つの顔が、目に見えて神妙に引き締まっていく。
犬というのは、本当に恐ろしいほどに勘が良い生き物だ。あのプラスチックの箱と四角いバッグが、楽しいドライブの行き先ではなく、あの白い巨塔――「痛いことをされる動物病院」へと直結している地獄の門であることを、本能的に完全に察知しているようだった。
「ほら、大福。観念して入れって。すぐ終わるから」
俺はまず、御しやすいはずの先住犬・大福の胴体を両手で抱え上げ、キャリーケースの狭い入り口へと押し込もうとした。
だが、大福は野生のすべてを呼び覚ましたかのように抵抗した。四本の短い足を限界まで突っ張り、ケースのフチを押さえて、頑なに中に入ろうとしない。まるで、満員電車に無理やり押し込まれそうになっている乗客のような必死さだ。
「フゴォーーッ! フゴォーーッ!」
ブタのような凄まじい抗議の鼻息を噴射しながらジタバタと暴れる大福と格闘すること数分。汗だくになりながら、なんとか大福の丸いお尻をケースの奥へと押し込み、カチリと扉のロックを閉めた。
「ふぅ……。よし、次はアズサだな」
俺が額の汗を拭いながら、隣で固まっているアズサに手を伸ばした、その時だった。
ガシャガシャガシャッ!!
背後で、凄まじい金属音が鳴り響いた。見ると、ケースに閉じ込められた大福が、「俺を出せ! なんで俺だけなんだ!」とばかりに、前足で扉の格子を狂ったように引っ掻いている。その凄まじい振動のまま、プラスチックのケースごと床の上をズリズリと移動し始めていた。さながら、意思を持った不穏なプラスチックのルンバだ。
その大福のパニックを見たアズサは、完全に防衛モードに入ってしまった。
アズサはケージの隅へと超高速でバックすると、座布団の上に自分の平べったい体を限界まで低く押し付け、文字通り「床と一体化」した。パグ特有のボイコット姿勢、通称『軟体拒否パグ』である。
こうなったパグは強い。骨格が消失したかのように体が液体化し、持ち上げようとしても、タプタプとした皮膚だけがずるりと伸びて、芯のない巨大なナマコのようになって床に張り付いて離れないのだ。
「アズサ、お前まで勘弁してくれよ……。俺の手は二本しかないんだって」
一人暮らしの多頭飼いにおける最大の壁。それは「人手の圧倒的な不足」だった。
大福の暴れる騒音をバックに聞きながら、俺は液体化した真っ黒なアズサのお腹の下に強引に腕を滑り込ませ、床から「引き剥がす」ようにして抱き上げた。アズサは額のシワをこれでもかと中央に寄せ、悲痛な顔で「ヒゥン……」とかすれた悲鳴をあげる。まるで俺が極悪非道な誘拐犯にでもなったかのような罪悪感が襲ってきた。
暴れる黒い影を、片手でナイロンバッグの口を広げながら、半ば押し込むようにして滑り込ませる。大急ぎでジッパーを閉め、メッシュの換気窓のロックを確認し、ようやく二匹の格納が完了した。
リビングの室温は二月だというのに、俺の奮闘のせいで真夏のように熱気立っていた。
右手にプラスチックケース(大福・約六キロ)、左肩にナイロンバッグ(アズサ・約五キロ)。両手両肩にかかる、合計十一キロを優に超える「ずっしりとした命の重み」に、俺の腕の筋肉は早くも悲鳴を上げていた。
「よし……出陣だ。お前ら、病院で暴れるなよ?」
ケースの格子から恨めしそうなギョロ目を覗かせる大福と、バッグのメッシュ越しに細い息を吐き出しているアズサ。
これから向かう動物病院で、一体どれほどのドタバタ劇が待っているのか。想像するだけで目眩がしそうだったけれど、俺はしっかりと二つの重みを両手両肩に感じながら、代休の静かな廊下へと力強く一歩を踏み出した。




