第18話
二〇二六年二月十六日・午後。
車を走らせること約二十分。俺は両手両肩にかかる十一キロの生命の重みに耐えかねて、半ば転がるようにして宇品にある動物病院の自動ドアをくぐった。
優しく暖房の効いた清潔な待合室には、独特の消毒薬の匂いが漂っている。
受付を済ませると、白衣の看護師さんが「まぁ、パグちゃんが二匹ですか! 珍しいですねぇ」と、マスク越しでも分かるほどの弾けるような可愛い笑顔で対応してくれた。男の悲しい性として、一瞬だけ鼻の下が伸びそうになったが、そんな余裕はすぐに吹き飛んだ。
「プルプルプルプル……」
ベンチに置いたプラスチックケースの中で、我が家の特攻隊長だったはずの大福が、生まれたての小鹿のように全身を小刻みに激しく震わせていたのだ。ギョロリと見開いた瞳は完全に光を失い、俺の手を求めてケースの隙間から短い前足を必死に突き出してくる。
隣のナイロンバッグの中のアズサも、完全に気配を消して貝のようになっていた。隙間から覗くクシャ顔は、世界の終わりを確信したかのような深い絶望を湛えている。
家の中であれだけ暴君として君臨している怪獣たちが、白い巨塔のインフラを前にした途端、これ以上ないほど打たれ弱い「内弁慶」の極みと化していた。
「大福、アズサ、大丈夫だから。ちょっともしもししてもらうだけだって」
二つのカバンをなだめるように交互に撫でていた、その時だった。
「――あれ? エースさん?」
頭上から降ってきた聞き覚えのある声に、俺は弾かれたように顔を上げた。
待合室の奥のベンチから立ち上がり、小さなキャリーバッグを小脇に抱えて歩み寄ってきたのは、なんと、私服姿の門脇さんだった。
会社のオフィスで見せる隙のないスーツ姿とは違い、ゆったりとしたオフホワイトのニットにデニムという、驚くほどラフで女の子らしい佇まい。俺はあまりのギャップに、一瞬だけ言葉を失ってしまった。
「門脇さん! どうしてここに……あ、そうか。ちまきちゃんの病院ですか」
「ええ、今日はちまきの定期的な爪切りと、予防薬を貰いにきたんです。エースさんこそ、大福くんとアズサちゃんですか?」
門脇さんが手元に提げたスリングバッグのチャックを少し開けると、中からあの「黒い妖精」――ロングコートチワワのちまきが、ピンと立った大きな耳を揺らしながらニュッと顔を出した。
ちまきは、病院の空気に怯えることもなく、どこか凛とした態度で「ワン」と小さく気高く鳴いた。その高音の鳴き声に反応したのか、大福のケースの中から「フゴッ!?」と情けない重低音の鼻鳴らしが響いた。
大福はガタガタと震えながらも、ケースの格子から必死に目を剥き、隣人のちまきを凝視している。アズサもバッグの隙間から細い鼻先だけを突き出し、同じ「黒い毛並み」のちまきの匂いを、ハフハフと必死に嗅ごうとし始めた。
「ふふ、二人ともそこでお利口に待てて偉いですね。大福くん、そんなに震えちゃって可哀想に……怖くないよ?」
門脇さんが少しだけ腰を落とし、大福のケースの格子越しに、白くて綺麗な指先をそっと差し入れた。大福は一瞬ビクッとしたものの、先日のバレンタインに美味しい馬皮ガムをくれた「女神」の匂いを思い出したのか、すぐにプルプルと震えながらも、門脇さんの指をペロペロと必死に舐め回し始めた。完全に美人に命乞いをするおっさんの構図だった。
「アズサちゃんも、お目目がくりくりで本当に可愛い。エースさん、二匹同時に病院に連れてくるなんて、男手一つで本当に大変だったでしょう」
「いや……家を出るだけで、真夏かと思うくらい汗をかきましたよ。多頭飼いのワンオペが、これほどアクロバティックだとは思いませんでした」
俺が苦笑いしながら言うと、門脇さんは「分かります。うちもちまき一匹だけでも、最初は爪切りに連れてくるだけで大騒ぎでしたから」と、共感に満ちた優しい笑みを浮かべてくれた。オフィスでの「経理部の鬼」としての面影はどこにもない。同じ犬を愛する者としての、地続きの温かい時間が、白い待合室の中に流れていた。
『――二〇二号室の、浅野大福ちゃん、アズサちゃん。第一診察室へどうぞ』
スピーカーからアナウンスが響き渡った瞬間、俺は「エース」という会社の記号を剥ぎ取られ、自分の素の本名を門脇さんの前に晒したような、妙な気恥ずかしさで一瞬だけ身を硬くした。
門脇さんは驚いた風でもなく、ただ「浅野さん」という俺の本当の名前を慈しむように、優しく目を細めてこちらを見つめている。
同時に、大福のケースから「ブフッ!」と絶望の鼻息が噴射され、アズサのバッグがビクンと大きく跳ね上がった。いよいよ、本番の診察の時間だ。
「浅野さん、頑張って。ちまきと一緒に、ここで応援してますからね」
門脇さんがちまきの小さな前足を掴んで、バイバイとするように可愛らしく振ってくれた。
「ありがとうございます。……よし、行くぞ、お前ら」
俺は再び十一キロのパグの塊を両手両肩に引き受け、門脇さんの優しい視線を背中に浴びながら、未知の診察室のドアへと向かって、悲壮な決意とともに歩みを進めたのだった。




