第19話
二〇二六年二月十六日・午後。
門脇さんとちまきの温かい応援を背に受けながら、俺は十一キロの重みを抱えて第一診察室のドアを開けた。
部屋の中央に鎮座する、冷たいステンレス製の診察台。その向こうには、優しそうなベテランの男性獣医師と、先ほどの可愛い看護師さんが、プロフェッショナルな笑みを浮かべて待っていた。
「さあ、大福くんとアズサちゃんですね。まずはお兄ちゃんの大福くんから台に上がりましょうか」
大福はケースから引きずり出された瞬間、自分が置かれた状況を察して、完全に泣きそうな顔をしていた。ギョロリとした大きな目を限界まで見開き、短い四肢を「ブルブルブルブル!」と、まるで携帯電話のマナーモードのように激しく震わせている。看護師さんに優しく抱きすくめられ、お腹を固定されても、その震えは止まらない。
今日の大福のミッションは、子犬期最後となる「混合ワクチンの接種」だ。
先生が慣れた手つきで、大福の首の後ろのタプタプとした皮膚をつまみ、細い注射針を近づける。大福は「フゴ……ッ」と息を呑み、世界が滅びるかのような絶望の表情を浮かべた。
「はい、大福くんチクッとするよー。……はい、おしまい。偉かったね!」
「フゴッ!?」
一瞬だけ刺された感覚に、大福は声にならない声をあげたが、先生のゴッドハンドによる超高速の保定と注射により、痛みは一瞬で去ったようだった。
続いて、隣でバッグの底に張り付いていたアズサの番だ。
アズサのミッションはワクチンではなく、繁殖場あがりの体に隠れた病気がないかを調べるための初めての精密健康診断――そして、そのための血液検査だった。
アズサを診察台の上に下ろすと、彼女は大福とは違うベクトルの恐怖を露わにした。暴れる気力すら奪われていた過酷な過去のせいだろうか、アズサはただ額のシワを限界まで寄せ、声を出すこともなく、静かに、だけど全力で全身をガタガタと震わせていたのだ。
「アズサちゃん、頑張ろうね。ちょっと腕をチクッとするからね」
看護師さんがアズサの小さな前足を器用に保定し、血管を浮き上がらせる。先生が慎重に針を刺し、注射器の中にアズサの赤い血液がゆっくりと満たされていく。アズサは痛みに耐えるように、ぎゅっと目を瞑り、俺のスーツの上着の袖口を、短い前足で思い切り握りしめてきた。
がんばれ、アズサ。これを乗り越えたら、お前は本当の意味で、健康で自由な飼い犬になれるんだ。
心の中で必死に祈る俺の手のひらに、アズサの熱い体温が伝わってくる。
「はい、アズサちゃんもよく頑張りました! これで今日の検査と注射はすべて終了です!」
先生が針を抜き、看護師さんが小さな丸いアルコール綿でアズサの前足を優しく揉む。
その瞬間だった。
カチリ、と二匹の脳内にある「限界」のロックが、同時に外れたような音がした。
「――フゴッ!? フガガガガガガッ!!」
お注射と採血という一世一代の天変地異から完全に解放された二匹のパグ姉弟は、何をトチ狂ったのか、ステンレスの診察台の上で、突如として猛烈なスピードでぐるぐると回り始めたのだ。
右回りに猛スピンをかけるフォーン色の大福。それに呼応するように、左回りに高速旋回を始める漆黒のアズサ。
パグ特有の、テンションが限界突破した時の暴走状態――通称『パグ・スピン』の二重奏だった。冷たい診察台の上が、一瞬にしてフォーンと黒の丸い毛玉が火花を散らす、カオスなダンスフロアへと変貌を遂げていた。
「ちょっと、二人とも危ないよっ!」
看護師さんが慌てて両手を広げて制止しようとするが、二匹のスピンは止まらない。
「ははは! 元気が良くて何よりだ。これなら大福くんのワクチンも、アズサちゃんの検査結果も、心配なさそうだね」
白髪交じりの獣医師は大爆笑しながら、二匹の激しいローリングを見守ってくれた。俺はといえば、診察台から二匹が転げ落ちないように、大慌てでフォーンと黒の塊を両腕でラグビーボールのように同時にガシッと抱きかかえて回収する羽目になった。さながらタッチダウン直前の必死なラガーマンだ。
腕の中に収まった二匹は、ハァハァとピンク色の舌を出しながら、さっきまでの恐怖が嘘のように、どこか誇らしげなドヤ顔で俺の顔を見つめていた。大福の首の後ろと、アズサの細い前足には、頑張った証である小さな白い絆創膏が、勲章のように貼り付けられていた。
「先生、ありがとうございました」
冷や汗と笑いでお腹がいっぱいになりながら、俺は二匹をそれぞれのキャリーへと仕舞い込んだ。
診察室のドアを開け、再び待合室へと戻ると、そこにはまだ、ちまきを抱えた門脇さんが、心配そうな顔で俺たちの帰りを待ってくれていたのだった。




