第20話
二〇二六年二月二十五日。
あの怒濤の病院デビューから、約一週間が経った。
あの日の診察後、待合室で待っていてくれた門脇さんと一緒に会計を済ませ、アパートへの帰り道に「エースさん、二匹とも本当によく頑張りましたね」と、ちまきちゃん用のおやつを大福とアズサに少しだけ分けてもらった。会社での『経理部の鬼』の面影はどこへやら、すっかり良き犬仲間としての距離が縮まったことに、俺の心は未だに少しだけ浮き足立っている。
だが、感傷に浸っている暇はなかった。
獣医の先生から「大福くんはワクチンを打ったので、一週間は絶対にお風呂に入れないでくださいね」と言われていた禁欲期間が、今日でようやく明けたのだ。
病院の恐怖の冷や汗、そしてアズサが日々我が家に馴染むにつれて発散し始めたパグ特有の「香ばしい匂い(お日様の布団と生乾き雑巾のハーフ)」。これらを一掃するため、俺は平日の夜だというのに、意を決して「二匹同時のお風呂大戦争」を執り行うことにした。
「よし、お前ら。一気に綺麗にするぞ」
浴室に連れ込まれ、ザーーーッという激しいシャワーの水音が狭い空間に反響した瞬間、フォーンと黒、二つの丸い影は同時に「フゴッ!?」と目を限界まで剥いた。
一度経験している大福は「またこの天変地異か!」とばかりにガタガタと震え、初めてのアズサは未知の恐怖にパニックを起こして、タイルの壁に背中をみっちりと張り付けて微動だにしない。
右足で大福の脱走をブロックし、左手でアズサのタプタプとした体を支えながら、ぬるま湯をかける。ジュワッと音がしそうな勢いで、二匹の肉厚なボリュームがみるみる縮んでいき、浴室の床には、目の大きな二匹の「細身の宇宙人」が並んだ。
汗だくになりながら二匹のシワの奥まで入念にシャンプーを泡立て、念入りに洗い流す。お互いに俺の膝の隙間に顔をギュッと埋め合ってシャワーに耐えている姿は、大変ながらも、どこか姉弟としての絆が深まっているようで見応えがあった。
大戦争の末、なんとかこの愛すべき毛玉たちをバスタオルで巻き上げ、リビングへと生還させたのは夜の九時すぎのことだった。
タオルから解放された瞬間、フォーン色の弾丸(大福)と漆黒の弾丸は、お風呂上がりの謎の興奮状態――通称『パグ走り』の共演を始め、絨毯の上を猛スピードでジグザグに暴走し始めた。
「こら、早くドライヤーかけないと風邪ひくって!」
首にかけたタオルの乾いた部分で額の汗を拭い、リビングのローテーブルの上に視線を落とした、その時だった。
ドサササッ、と激しい音を立てて、二匹の暴走がピタリと急停止した。
大福とアズサのギョロリとした大きな目が、限界まで見開かれ、ローテーブルの一角を一点に凝視している。二匹の小さな鼻穴が、シュハシュハ、シュハシュハと、これまでにない超高速のサイクルで音を立てて空気を吸い込み始めた。
彼らの視線の先――そこにあったのは、俺が明日の朝食代わりに食べようと思ってスーパーで買って置いておいた、一本の「バナナ」だった。
パグという生き物は、どうしてこうも黄色い果実に対して狂気的な執着を見せるのだろうか。皮を剥くどころか、まだ緑色のスジが残る硬い皮に包まれている状態だというのに、お風呂上がりの水分を得て覚醒した彼らの超嗅覚は、その甘い気配を完璧に察知していた。
「あ……」
俺が声をあげるより、彼らの行動の方が遥かに早かった。
「フゴォーーーッ! フガガガガガガッ!!」
さっきまで病院の恐怖やお風呂のシャワーで「ブルブルと震えていた悲劇のヒロイン&ヒーロー」の姿は、そこには一ミリも残っていなかった。
大福はローテーブルに短い前足をかけ、喉から手が出るどころか目玉が飛び出しそうな形相でバナナに向かって激しく吠え立て、アズサにいたっては、大福の背中を踏み台にするような勢いで、普段は見せない驚異的なジャンプ力でテーブルの上を急襲しようとしている。
「待て! お前ら落ち着け! バナナは逃げない! っていうか、これは俺の朝飯だ!」
俺は慌ててバナナを右手で高く掲げたが、フォーンと黒の怪獣たちは、俺の周りをぐるぐると旋回しながら、ハァハァと狂ったように舌を出してジャンプを繰り返す。お風呂で綺麗さっぱり洗い流したはずのパグ臭が、彼らの尋常ならざる興奮の熱気によって、再びリビング中に猛烈に立ち込め始めていた。
「ハァ……ハァ……分かった、分かったから! 一口だけだぞ!」
怪獣たちの包囲網に完全敗北した俺は、床にしゃがみ込み、バナナの皮を少しだけ剥いて、爪の先ほどの小さな塊を指先につまんだ。
その瞬間、二匹はまるで軍隊の査閲を受ける新兵のように、一糸乱れぬ完璧な姿勢でビシッと「お座り」を極めた。額のシワをこれでもかと寄せて、ギョロ目を狂気的に輝かせている。
大福の口元へ指先の塊を運ぶと、ヌルンッ! というダイナミックな擬音が聞こえそうな勢いで、俺の指ごと吸い込まれた。続いて残るひとかけらをアズサの前に差し出すと、彼女は小さな前歯でハフッと上品に、だけど確実に俺の手のひらからバナナをもぎ取っていった。
モグモグ、モグモグ。
人生のすべての悦びをその口の中に凝縮したような、至高の表情でバナナを咀嚼する二匹のパグ姉弟。
お風呂上がりの爽やかなシャンプーの香りと、ほんのりとしたバナナの甘い匂いが、ワンルームの空気の中で奇妙に混ざり合う。
自分の朝食を奪われ、シャツはびしょ濡れのままの俺だったけれど、満足げに「プフゥ」と大きな鼻息を漏らして俺の足元で丸くなり始めた二匹の温もりを感じながら、なんだかこれ以上ないほど賑やかで幸福な、二月最後の夜のひとときを噛み締めていたのだった。




