第21話
二〇二六年三月一日。
三月の一日。暦が春へと切り替わったこの日、俺のワンルームから始まった小さな世界は、かつてないほどの賑やかさの中にあった。
やってきたのは、南区にある『広島みなと公園』の有料ドッグラン。
一月の頃はまだすべてのワクチンが終わっていなくて、俺のフリースの中でガタガタと震えることしかできなかった大福。あるいは、世界のすべてに怯えていた黒パグのアズサ。二匹の医療インフラと手続きが完全に完了した今、俺たちはついに、正真正銘の「ドッグランデビュー」の切符を手に入れたのだ。
しかも今回は、ただの一人と二匹ではない。
柵に囲まれた広大な芝生広場には、同期の佐藤が連れてきたミニチュアダックスの『コタロウ』。大家さんが優雅に引き連れるポメラニアンの『ぽん太』、真っ白なスピッツの『ハク』、そしてアズサの良き理解者である黒ペキニーズの『万次郎』。さらに、お隣の門脇さんが大切そうに抱きかかえる、ブラックタンのチワワの『ちまき』。
総勢六匹の犬たちと、四人の人間が集まる、我が犬生において最大規模の「オールスター集会」が開催されていた。
「よし、みんな、行ってこい!」
受付で狂犬病とワクチンの証明書を提示し、念願のリードオフ。
ゲートが解放された瞬間、大福は「フゴガガガガッ!」と地響きのような鼻息を鳴らし、水を得た魚のように佐藤のダックスを目がけて弾丸のごとく猛ダッシュを開始した。
アズサは最初こそ俺の足元で固まっていたものの、大家さんの黒ペキニーズ・万次郎のドシリとした風格に安心したのか、その影に隠れるようにして、トコトコと嬉しそうに春の枯れ芝を踏み締め始めた。
ポメラニアンとスピッツがその周りをふわふわと駆け巡り、チワワのちまきがエリアの隅にあるベンチの上から「ワン!」と気高くそれを見守る。フォーンと黒、白と茶、様々な命が交差するその光景は、見ていて永遠に飽きることがなかった。
「いやぁ、浅野くん、二匹とも本当に立派なドッグランデビューだね」
大家さんが水筒から温かいほうじ茶を注ぎながら、目を細めて嬉しそうに微笑んだ。
「一ヶ月前とは、二匹とも目つきが全然違いますよ。浅野さん、本当に頑張りましたね」
門脇さんも、腕の中のちまきを愛おしそうに撫でながら、オフィスでは絶対に見せない柔らかい眼差しを俺に向けてくれた。
「いえ、皆さんのおかげですよ。俺一人じゃ、今頃どうなってたか……」
俺は照れくささを隠すように、自販機で買った缶コーヒーのプルタブを開けた。
犬たちが一頻り走り回り、各々のペースでクン活を始めた頃、ベンチを囲む俺たちの会話は自然と、最近の犬事情についてのトピックへと移っていった。
「そういえばね、ちょっと皆さんに、犬のことで相談というか、お話があるんです」
門脇さんがふと、少し真面目な顔をしてマグカップを置いた。
「私の実家の弟なんですけど……今、市内の大学に通っていて一人暮らしをしてるんです。その子の部屋のベランダに、先週の雨の日の夜、なぜか一匹のワンちゃんが迷い込んできたらしくて」
「えっ、迷い犬か?」
佐藤が缶コーヒーを握る手を止めて身を乗り出した。
「ええ。犬種は、オスのキャバリア。まだ若そうなんですけど、すごく人懐っこくて、部屋に入った瞬間から尻尾を振ってベッタリなんだそうです。でも、警察や保健所に届けても、今のところ該当する迷子犬の届け出が出ていなくて……」
「キャバリアかぁ! あの大きな垂れ耳とウルウルしたタレ目で甘えられたら、学生の一人暮らしじゃなくても、放っておけなくなっちゃうよねぇ」
多頭飼いの大先輩である大家さんが、深く同情を込めて頷いた。「でも、講義やアルバイトの合間を縫っての保護生活は、さぞかし頭を悩ませているだろうね」
その言葉通り、門脇さんの話によると、学生の身分でこのまま飼い続けるわけにはいかないため、近いうちに正式な里親を探すか、それとも元の飼い主を捜すための本格的なビラ配りをするべきか、青年はひどく困惑しているのだそうだ。
俺は缶コーヒーの温もりを感じながら、静かに門脇さんの話を聞いていた。
頭の片隅に、一ヶ月前の自分が重なる。ネットのタイムラインでアズサの黒い影を見つけ、「一人暮らしのサラリーマンに二匹目は無茶だ」と葛藤しながらも、山の上の施設へと車を走らせたあの日の緊張感。
「門脇さん」
俺はコーヒーを一口すすり、アズサの真っ黒な背中を見つめながら呟いた。
「もし、弟さんが里親探しのポスターを作ったり、ネットで募集をかけるなら、俺のSNSのアカウントでも拡散させてください。『サラリーマンA』のアカウント、最近ありがたいことにパグ繋がりのフォロワーさんが少しずつ増えてるんです。何か力になれるかもしれません」
門脇さんは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに今日一番の、本当に嬉しそうな笑顔を咲かせた。
「浅野さん……ありがとうございます! 弟に伝えたら、きっとすごく安心すると思います。その時は、ぜひよろしくお願いしますね」
ふと足元を見ると、ダックスとのプロレスごっこを堪能した大福が、泥だらけの潰れた鼻を「フゴッ!」と鳴らして俺の膝に飛びついてきた。アズサもまた、少し離れた場所からではあったが、俺の姿をじっと見つめ、短い尻尾を小さく小さく振っている。
迷い込んできた、新しい小さな命。
この春の風が吹く宇品のドッグランから、俺たちの犬好きコミュニティは、また新しい物語の糸を紡ぎ出そうとしていた。
俺は、我が家の凸凹な二つの影を交互に優しく撫しさすりながら、これから始まるかもしれない新しい出逢いの予感に、心地よい胸の高鳴りを感じていたのだった。




