第22話
二〇二六年三月七日。
土曜日の午後。三月に入って少しずつ和らいできた日差しが、アパートの古いフローリングの上に、のんびりとした四角い光の模様を描いていた。
せっかくの休日だというのに、俺のスマートフォンの画面は、液晶が割れんばかりに激しく振動していた。画面に表示されているのは、九州の実家の母親の名前。
ため息をひとつ吐き、通話ボタンを押してスマートフォンをローテーブルの上にスピーカーモードで放り出す。実家からの電話というのは、いつだってろくな用事がない。
『――もしもし? ああ、浅野? ちゃんとご飯食べてるの? 部屋は片付けてるんでしょうね?』
受話口から飛び出してきたのは、相変わらずのマシンガントークだった。
俺は「はいはい、食べてるよ。片付けてる片付けてる」と、脳のメモリを数パーセントだけ割いた、極めて適当なノリで相槌を打つ。
『それよりあんた、もういい歳でしょう。結婚の予定とか、いい人はいないわけ? 隣町のサカモトさんのところの息子さんはね、この春に二人目が生まれたっていうのに、あんたときたら本当に暢気なんだから……』
「はいはい、そうだね。こっちは仕事が忙しいんだって」
始まった。定例報告のような結婚の催促。
以前なら、この手の小言を言われるたびに胃がキリキリと痛んだり、イライラして途中で電話をブチ切りたくなったりしたものだが、今の俺には、親の説教を完全に無力化する「最強の盾」が手元にあった。
俺は床にしゃがみ込み、ラバー製の犬用ブラシを右手に握りしめた。
俺の膝の間には、フォーン色の丸い塊――大福が、気持ちよさそうに目を細めてドシリと鎮座している。そしてその隣には、漆黒の塊――アズサが、順番を待つようにお行儀よくお座りをしていた。
大福の背中にブラシを当て、スーッと引いていく。
パグという犬種は、短毛種だから毛が抜けないだろうと思ったら、それは素人の大いなる勘違いだ。実際には『ダブルコート』という二層構造の毛並みを持っていて、特にこの三月の「換毛期」の時期の抜け毛の量は、信じられないほどの暴挙と化す。
ひと掻きするだけで、ブラシの目にはフォーン色の柔らかい下毛が、まるで羊毛フェルトのようにみっちりと収穫された。
『ちょっと、聞いてるの? だいたいあんたは昔からマイペースでねぇ。そういえばこないだね、実家のタマちゃんがキャットタワーから足を踏み外してね、もう可愛いのよぉ……』
スピーカーから流れる母親の声は、いつの間にか実家で溺愛されている老猫「タマ」の自慢話へと綺麗にシフトしていた。
俺は「へぇ、タマちゃん相変わらず元気だね」と短く応じながら、今度はアズサを膝の間に引き寄せた。アズサは額のシワを寄せて「フゴッ」と短く鼻を鳴らすと、大人しく俺に背中を委ねた。
アズサの漆黒の毛並みにブラシを通すと、今度は吸い込まれそうなほど綺麗な黒い綿毛が、ごっそりとラバーに絡みついてくる。
『やっぱり猫こそが神様の作った最高傑作よねぇ。あ、そうそう。あんた、一人暮らしのアパートだからって、まさか変な生き物なんか飼ってないでしょうね?』
一瞬、ブラシを動かす俺の指先がピタリと止まった。
『私はね、あの犬っていう生き物だけは、一生無理だからね。散歩の時あんなに大きな声で吠えるし、匂うし、隙あらばヨダレまみれでベタベタとしがみついてくるでしょう? ああいう品のない動物は、うちのタマちゃんに対する冒涜よ。あんたも絶対に犬だけは飼っちゃダメだからね?』
スピーカーから響く、母親の容赦のない「犬ディス・猫至上主義」の弾丸。
俺は思わず、足元の二匹の顔を見つめた。
大福は、自分のすぐ横に積み上げられていくフォーン色と黒の、小さなクッションが一つ作れそうなほどの抜け毛の山を不思議そうにギョロ目で凝視し、アズサにいたっては、母親の声がうるさいのか、「ブフッ」とスピーカーに向かって盛大に鼻息を噴射していた。
「……はは、分かってるよ。犬なんて飼うわけないだろ、一人暮らしのサラリーマンなんだから」
俺は乾いた笑い声を浮かべながら、完璧な嘘を電波に乗せた。
もし、このワンルームに、真夜中に原付バイク顔負けのいびきを二重奏で撒き散らし、お風呂に入れれば宇宙人に変形し、バナナを見せれば狂喜乱舞して俺の背中を踏み台にするパグが二匹も生息していると知れたら、実家の猫派の母親は泡を吹いて倒れるに違いない。
『よし、分かればいいのよ。じゃあ、タマちゃんのご飯の時間だから切るわね。体調には気をつけるのよ』
「はいよ、お母さんもね」
カチリ、と静かに通話が切れた。
リビングには、再び三月の穏やかな静寂が戻ってきた。
俺はスマートフォンをポケットに仕舞い込み、床の上に山積みになったフォーンと黒の、愛おしい抜け毛の塊を両手でそっと丸めた。
実家には、絶対に言えない秘密。だけど、この閉じたワンルームの中では、この二つの丸い影こそが、俺のすべてを肯定してくれる無二の家族だった。
「よし、掃除機かけるか。お前ら、ダイソンの音に吠えるなよ?」
声をかけると、大福が俺の膝にクシャクシャの顔を押し付けて甘え、アズサもまた、生まれつき泥でもついているかのように真っ黒な鼻を鳴らして、俺の手のひらを優しくペロリと舐めた。
親の小言で少しだけザラついていた俺の心は、二匹のストーブのような温もりによって、春の雪のように綺麗に、優しく溶けていくのだった。




