第36話
二〇二六年四月十三日、月曜日。
白いカーテンで仕切られた病院のベッドの上で、俺は人生最大級の「居心地の悪さ」と「幸福」を同時に味わっていた。
「浅野さん、本当に無事で良かった……。佐藤さんから連絡をいただいたとき、目の前が真っ暗になったんですよ」
そう言って、パイプ椅子に腰掛けた門脇さんが、心配そうに俺の顔を覗き込んでくる。今日の彼女はオフィスのスーツ姿ではなく、清楚な白いブラウス姿だった。その綺麗な瞳に不安の影を落とさせてしまったことが、申し訳ない反面、たまらなく嬉しかった。
俺のベッド脇の小さな物置は、今やちょっとした物産展のような騒ぎになっている。
門脇さんと、音大生のみきさんが持ってきてくれたのは、千疋屋のロゴが輝く美しいゼリーと、見るからに高級そうな完熟マンゴー。そしてその煌びやかな果物の横に、どっしりと鎮座しているのは、アパートの大家さんが持参したパック詰めの『おはぎ』と、真っ白な『大福』だった。
「浅野くん、大福を置いてきぼりにして寂しいだろうと思ってね。身代わりにこれを持ってきてあげたわよ。しっかり食べて元気になりなさい」
大家さんは満面の笑みで和菓子の大福を指差した。いや、大家さん、気持ちはめちゃくちゃ嬉しいんですけど、パグの大福の身代わりにモチモチの和菓子を食べろというのは、シュールが過ぎませんか。隣でみきさんが「ふふ、ダブル大福ですね」と上品に笑っている。
賑やかなお見舞いの時間が終わり、一同が「お大事にね」と病室を後にした。
急に静まり返った四人部屋の空間で、俺はぽつんとベッドに身を横たえる。
緊張が解けた途端、強烈に「アレ」が恋しくなった。ポケットを探るが、愛用のタバコもライターもない。看護師さんに尋ねたところ、「当然ですが、病院の敷地内は全面禁煙です」と慈悲のない笑顔で告げられていた。退院まで、あの芳醇な紫煙はお預けというわけだ。
やがて、トレイに乗せられた病院食が運ばれてきた。
メニューは、白米に焼き魚、そして小さなお吸い物。
「……薄いな」
箸をつけた瞬間、思わず呟いてしまった。ニコチンが切れて感覚が過敏になっているせいか、それとも単に減塩ルートを爆走しているせいか、味がほとんどしないのだ。千疋屋のマンゴーや、大家さんの甘い大福との高低差で、脳の味覚インフラがバグを起こしそうになる。
何もすることがなく、ひたすらに暇な時間が流れる。
スマホを開けば、門脇さんとのLINEのトーク画面。送信されずに消えたあのデートの誘いを、彼女は気づいていただろうか。去り際、彼女が「退院したら、また大福くんたちの動画、見せてくださいね」と言ってくれたときの笑顔が、薄暗い病室の天井に浮かんで消える。
「はぁ……早く外の空気を吸いたいな」
俺は紫煙の代わりに、器から立ち上るわずかな湯気を肺に吸い込み、味の薄いお吸い物の汁を、ズズ、と寂しくすすった。
四月の病院の夜は長く、家に残してきた二匹のパグの「フゴフゴ」といううるさい鼻息が、今の俺にはどんな音楽よりも恋しかった。




