第35話
二〇二六年四月十二日、日曜日。
あの日、門脇さんから届いた「バナナの動画、とっても癒されました! 大福くんたち可愛いですね」というLINEのメッセージを、俺はベッドの上で何度も読み返していた。画面の向こうの彼女の笑顔を想像するだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。
(よし、今だ。思い切って誘ってみよう)
スマートフォンのキーボードを叩く。
『もし良かったら、今度の日曜日、大福たちを連れて一緒に散歩でも――』
そこまで打ち込み、送信ボタンに指をかけようとした、その瞬間だった。
――ぐらり、と。
世界が、奇妙な角度で大きく傾いた。
「え……?」
視界が急激にセピア色に染まり、頭の芯を巨大な金槌で殴られたような猛烈な目まいが襲う。何か悪いものでも食べたか、いや、そんな覚えはない。新年度の疲れが一気に噴き出したのか。
手からスマートフォンが滑り落ち、フローリングの床に虚しい音を立てて転がった。俺の意識は、そのまま深い闇の底へと真っ逆さまに落ちていった。
「――ウオォォォォーーン!!」
「アン、アン、ウオォォォーーン!!」
深い闇の向こうから、遠く、激しく、俺を呼ぶ声が聞こえていた。
それは、普段の甘えた「フゴフゴ」という鼻息ではない。地響きのような、魂を絞り出すような、悲痛なパグたちの遠吠えだった。かつて音大生のみきさんのバイオリンに合わせて響かせた、あの「新幹線のトイレの吸引音」に似た、だけどどこまでも必死な、命のSOSのアリア。
次に俺が目を覚ましたとき、視界に飛び込んできたのは、見慣れない白い天井と、規則的に鳴り響く電子音だった。
鼻を突くツンとした消毒液の匂い。左腕には、細い透明なチューブがつながり、点滴の液が静かに滴り落ちている。
「……ここは……?」
「気がついたか、浅野」
かすむ視界の横から、ひどく疲れた顔をした佐藤が覗き込んできた。
「佐藤……? なんでお前が……」
「お前、LINEの返信が急に途絶えるから変だと思ってさ。合コンの続きの件で電話したんだけど出ないし、気になってアパートの部屋の前まで来たら、中から大福とアズサが、聞いたこともないような地獄みたいな声で遠吠えしてたんだよ。ドアを叩いてもお前が出てこないから、大家さんに鍵を開けてもらったら、お前が床で倒れてて……。すぐに救急車を呼んだんだ」
佐藤の言葉に、俺は断片的な記憶を繋ぎ合わせた。
あの遠吠えは、夢じゃなかったんだ。大福とアズサが、倒れた俺を助けるために、必死で外にSOSを発信し続けてくれていたのだ。
「……大福たちは……?」
「安心しろ。大家さんが預かって、今はアリアと一緒に大人しくしてるよ。それよりお前、医者の先生が『極度の過労と脱水症状』だってさ。新年度の激務に、犬たちの世話、いろいろとキャパオーバーだったんだよ」
佐藤の話を聞きながら、俺は安堵と同時に、自分の不甲斐なさに情けなくなった。
ベッドの脇のサイドテーブルには、佐藤が拾ってきてくれた俺のスマートフォンが置かれている。画面のロックを解除すると、そこには送信されずに残ったままの、門脇さんへのメッセージの残骸が浮かんでいた。
「どれくらい入院するんだろうな、俺は……」
ぽつりと言葉を漏らすと、佐藤は「しっかり休め」と俺の肩を軽く叩いた。
窓の外は、静かな四月の夜が広がっている。せっかく動き出した門脇さんとの距離、そして、俺を救ってくれた愛おしい二匹の怪獣たち。
点滴の滴を見つめながら、俺は、少しだけ長い夜になりそうな予感に、静かに目を閉じるのだった。




