第32話
二〇二六年四月六日、月曜日。
世にも珍しい『ワクチン休暇』という名目で、俺は急遽会社を休むことになった。社長が「愛犬ボスを病院に連れて行くついでに、お前らも行ってこい!」と号令をかけたからだ。……いや、ありがたいけど、さすがに社長、公私のインフラ混ざりすぎてませんか。
だが、この休暇が俺にとっての「地獄の幕開け」になるとは、玄関でキャリーケースを広げた瞬間に悟った。
「大福、アズサ、行くぞ」
その言葉を耳にした途端、リビングの床で昼寝をしていた二匹の動きがピタリと止まった。次の瞬間、彼らはまるで床に接着剤で貼り付けられたかのように、腹を床に擦り付け、必死の抵抗を始めたのだ。
「フゴ……フゴッ!!」
大福を抱きかかえようとすると、まるで重力が十倍になったかのようにズシリと重い。おい、先月のドッグランの後からまた太ったのか? 抱き上げた腕には、ずっしりとした「パグの質量」が伝わってくる。アズサに至っては、脱走兵のように家具の隙間へ滑り込もうと必死の形相だ。
数分間の格闘の末、俺は汗だくになりながら二匹をどうにかキャリーへ押し込んだ。
病院までの道のり、キャリーの中から聞こえてくるのは「フゴ……ッ……フゴ……ッ……」という、世の終わりを迎えたような重苦しい鼻息だけ。
病院の待合室に到着すると、そこにはすでに先客のボスがいた。
「よう浅野! うちのボスは病院大好きだぞ!」
社長に連れられたボスは、尻尾をブンブンと振り回し、看護師さんからおやつを貰ってご満悦だ。
その横で、俺のキャリーケースの中のパグ姉弟は、世の中の全ての裏切りを凝縮したかのような「絶望の眼差し」をこちらに向けていた。
大福のギョロ目は限界まで見開かれ、潤んだ瞳の奥には「なぜ俺をここに連れてきたのか。あんなに尽くしてきたのに」という悲痛な問いかけがある。アズサは、キャリーの隙間からこちらを見つめ、ピクリとも動かない。
ピットブルの強面ボスのヘソ天と、パグ姉弟の「絶望の置物」化。
獣医の待合室には、あまりにシュールな「犬の格差社会」が広がっていた。
「次は大福くん、アズサちゃん」
看護師さんの声が響く。
二匹の運命が決まる時が、やってきた。俺は深呼吸をして、重いキャリーケースを診察室へと持ち上げた。このあと待ち受ける、冷たい診察台と針の恐怖。それを知ってか知らずか、大福はついに目を閉じ、運命を受け入れたのか深い溜息を吐いた。
「フゥーーー……」
その溜息は、間違いなく「俺の敗北」の音色だった。




