第30話
二〇二六年四月一日、水曜日。
今日からいよいよ新年度がスタートした。
春の柔らかな日差しが宇品の街を包み、通勤路の桜並木も五分咲きといったところだ。職場のフロアには新入社員たちの初々しいリクルートスーツ姿が溢れ、数日前にあの鬼課長が喫煙所で「保護犬のパグを迎えるんだ」と少年のように目を輝かせていたのが、まるで新しい季節の始まりを祝福する前奏曲のようにも思えた。やっぱり、犬のいる生活はいい。
そんな我が家の犬まみれインフラにも、小さな変化が起きていた。
先月、あの二階の音大生・みきさんのバイオリンと、アリアちゃん、そして我が家の大福とアズサが奏でた「新幹線のトイレの吸引音混じりの大合唱」。あのカオスなセッションの動画を、何気なく個人のSNSにアップしてみたところ、これがまさかのプチバズを引き起こしたのだ。
『パグのソウルが凄すぎる』『サイレンかと思った』といったコメントとともにシェアが広がり、気づけばフォロワーの数は年度またぎで一気に大台を超え、全国の犬仲間たちとの繋がりが急速に広がっていた。
「フゴッ、フゴッ!」
帰宅後、私服に着替えてスマホの通知画面を眺めていた俺の膝の上に、我が家のスター(笑)である大福が、重たい顎をドサリと乗せてくる。その横では、黒パグのアズサが「私も撫でて」と言わんばかりに、小さな鼻を俺の手のひらに押し付けてきた。
「お前ら、ネット有名犬の自覚はあるのか?」
苦笑しながら二匹のシワを揉んでやっていると、ポケットのスマホが振動した。同僚の佐藤からのLINEだった。
『浅野、今日の引継ぎ業務お疲れ! 今、いつものビルの屋上喫煙所にいるんだけど、ちょっと緊急の作戦会議を開きたい。すぐ来い』
時計を見ると、すでに定時は過ぎている。俺はパグ姉弟に多めの夕飯を与えて留守番を言い含め、急いで上着を羽織って職場へと足を引き返した。
重いガラス扉を開けると、夕暮れの西日の中に、佐藤が缶コーヒーを片手に神妙な面持ちで立っていた。
「遅いぞ浅野。実はさ、今度の日曜の夜、他部署の奴らと合同の合コンがあるんだよ」
佐藤は愛用のタバコに火をつけながら、声を潜めて切り出してきた。
「合コン? お前、相変わらずマメだな。俺はパス。家で怪獣たちの夜の世話があるし、そもそもそういう華やかな場は苦手だ」
俺が即座に断ると、佐藤はニヤニヤと悪魔のような笑みを浮かべ、俺の肩をバシッと叩いた。
「まあ待て。今回はただの合コンじゃない。経理部の数合わせでさ……なんと、あの門脇さんも来るらしいぞ」
「――ぶっ!?」
吸い込みかけた煙が変なところに入り、俺は激しくせき込んだ。灰皿に危うくタバコを落としそうになりながら、佐藤の顔を二度見する。
「門脇さんが……? あの、チワワのちまきを溺愛してる、経理部の?」
「そうだよ。彼女、普段はガードが固いけど、今回は同期の女の子にどうしてもって頼まれて断れなかったらしい。どうだ? パグの抜け毛を気にしてる場合じゃないだろ?」
脳裏に、先週末の社長宅バーベキューで、スリングの中のちまきを愛おしそうに抱きかかえながら、俺の隣でクスクスと笑っていた門脇さんの私服姿がフラッシュバックする。
合コンという男女のインフラそのものには一ミリも興味がない。だが、門脇さんが行くとなれば、話は完全に別次元のロジックに突入する。
「……まあ、佐藤がそこまで言うなら、男の友情として数合わせに付き合ってやらないこともない」
「ハハハ! お前、分かりやすすぎるだろ!」
佐藤の爆笑が響く喫煙所で、俺は自分の耳が少し熱くなっているのを感じていた。
新年度、四月。
SNSでのまさかのバズと、パグたちの人気急上昇。そして、週末に控えた、まさかの「門脇さん参加の合コン」。
大福とアズサが待つワンルームへ向かう夜道、俺の心臓は、春の生ぬるい夜風に煽られるように、いつもより少しだけ騒がしいビートを刻み始めているのだった。




