第29話
二〇二六年三月三十一日、火曜日。
世間一般には、年度の終わりを告げる大晦日のような日だ。先週末の社長宅バーベキューで、巨大なピットブルのボスに圧倒されていたあの時間が遥か昔のことのように思えるほど、今日のオフィスは戦場と化していた。
異動者の送り出しやデスクの片付け、予算の最終チェックなどで、朝から蜂の巣をつついたような騒ぎになっていたフロア。
午後、ようやく一息ついた俺は、同僚の佐藤を誘ってビルの屋上近くにある職場の喫煙所へと足を運んだ。
窓から差し込む三月の西日に向かって、愛用のタバコから紫煙をふうっと吹き出す。年度末の修羅場で溜まりに溜まった頭の澱みが、ニコチンとともに少しずつ溶けていくような気がした。
「いやあ浅野、今年の年度末もなんとか生き残ったな」
「本当にな。一時は予算が合わなくてどうなるかと思ったよ」
「そういえばさ、もうすぐ四月だし、そろそろ狂犬病とフィラリアの予防接種の時期だな。うちのコタロウ、あの動物病院の先生が苦手でさ……」
佐藤が缶コーヒーを片手にそんな犬飼い特有の春のインフラの話題を切り出した、その時だった。
重いガラス扉が開き、アイコスを片手にした俺たちの直属のボス、課長がトボトボとした足取りで入ってきた。普段は数字に厳しく、会議では鬼のような形相を見せる課長だが、今日のその背中は、年度末の激務ですっかり小さく縮んでいるように見えた。
「お、浅野に佐藤。お疲れさん。……ふぅ、やっと席を離れられたよ」
課長はアイコスを咥えてスイッチを入れると、もう片方の手に握りしめたスマホの画面を、何やら熱心に見つめ始めた。老眼鏡の奥の目が、いつになく真剣に、そしてどこか目尻を下げてデレデレと緩んでいる。
(……なんだ? 競馬のオッズでも見てるのか?)
佐藤と目で合図を交わしつつ、俺は煙を灰皿へ落としながら、それとなく声をかけてみた。
「課長、お疲れ様です。スマホを凝視して、何か新しい趣味でも始められるんですか?」
すると課長は、ハッと我に返ったようにこちらを見て、少し照れくさそうに頭を掻いた。それから、「いや、実はさ……」と、スマホの画面を俺たちの目の前に差し出してきたのだ。
「これ、ちょっと見てくれよ。保護犬センターのホームページなんだけどな」
画面に映し出されていたのは、どこかの愛護団体が運営している里親募集のページだった。課長の太い指が画面をスクロールし、ある一匹の犬のプロフィール写真でピタリと止まる。
「――っ!?」
その瞬間、俺の脳内レーダーが激しくアラートを鳴らした。
そこに写っていたのは、紛れもない、俺の愛してやまない「パグ」の姿だった。
しかし、我が家の大福のようなフォーンでもなければ、アズサのようなシャープな黒でもない。それは、まるで夕暮れ時の優しい太陽の光を浴びたような、暖かみのある濃いオレンジゴールド――パグの中でも珍しいとされる『アプリコットカラー』の毛並みを持った犬だった。
「パグ、ですか……?」
「そうなんだよ。娘が春から東京の大学に進学してさ、家を出ていっちゃってな。カミさんと二人きりになった家が、急にシンと静まり返っちまって。それで、前から犬を飼いたがっていたカミさんと話し合って、迎えるなら保護犬にしようって探してたら、この子が目に留まったんだ。浅野、お前パグ飼ってるだろ? パグって、やっぱり飼いやすいか?」
画面の中のアプリコットパグは、少し首を傾げ、パグ特有の「哀愁と愛嬌が限界突破したギョロ目」でこちらを見つめていた。年齢は二歳。前の飼い主の事情でセンターに持ち込まれたらしい。
いつもは職場で「進捗はどうだ!」と叱り飛ばしてくる課長が、今はまるで少年のように目を輝かせ、俺にアドバイスを求めている。
「課長、パグを舐めちゃいけません。あいつらは犬の形をした怪獣です」
俺はタバコを挟んだ指を少し立て、先輩飼い主としてのドヤ顔を隠さずに語りかけた。
「短毛のくせに抜け毛は信じられないくらい多くて服に刺さりますし、頑固だし、食い意地は凄まじいです。うちの大福なんて、この前新入りのビーグルに早食いで負けて、一日中不貞寝してましたから」
「ハハハ、そうなのか」
「だけど」
俺はタバコの煙を最後に一口吸い、灰皿に揉み消した。
「あの潰れた顔で、短い尻尾をちぎれんばかりに振って『あなたが大好きです』って体ごとぶつかってこられたら、一日の仕事のストレスなんて一瞬で吹き飛びますよ。寂しくなったお宅のリビングのインフラを温めるには、これ以上ない最高の相棒になります」
俺の言葉を聞いて、課長はスマホのアプリコットパグをもう一度愛おしそうに見つめ、アイコスの煙を吐き出した。
「怪獣か……。いいな。カミさんと今週末、センターの面会に行ってみるよ。浅野、またいろいろ教えてくれよな」
「ええ、いつでも聞いてください」
チン、と年度末の終わりを告げるように、アイコスの終了合図が喫煙所に響く。
課長はすっかり元気を取り戻した顔で、「よし、最後の書類を片付けるか!」と、戦場のようなフロアへと戻っていった。




