第28話
三月二十一日、春分の日。
あの大合唱の翌朝、大家さんから届いた恐怖のLINE――『少しお話があります』というメッセージに凍りついた俺だったが、結論から言うと、それは嬉しい誤算だった。大家さんの部屋に呼び出された俺を待っていたのは、お説教ではなく、我が社の社長から預かったという一枚の招待状だったのだ。
そうして迎えた今日、怒濤の年度末を駆け抜けた社員たちを労うため、会社の主催で『年度末慰労バーベキュー』が開催された。
会場となったのは、なんと我が社の社長の自宅。市内の一等地にある社長の大豪邸には、ちょっとしたフットサルでもできそうなほど広大で美しい芝生の庭が広がっていた。
無類の動物好きである社長の「ペットを飼っている奴は、家族なんだから全員連れてこい!」という豪快な号令の元、俺は愛車の助手席に大福とアズサを乗せ、緊張と肉の香りに胸を躍らせながらやってきたのだった。
会場には、すでに炭火の香ばしい匂いが立ち込め、何人もの社員が集まっていた。
受付の近くでは、経理部の門脇さんが私服姿で、お気に入りのスリングの中からチワワのちまきをちょこんと覗かせている。ちまきは初めての大舞台に緊張しているのか、心なしかいつもより大人しい。
「あ、浅野さん! 大福くんにアズサちゃん、いらっしゃい!」
「門脇さん、お疲れ様です。すごい庭ですね……」
俺が挨拶を交わし、大福とアズサを芝生の上に降ろした、その時だった。
邸宅のリビングへと繋がる大きなガラス扉が開き、この大豪邸の「主」が姿を現した。
「おお、みんなよく来たな! 今日は無礼講だ、腹いっぱい食ってくれ!」
ビール片手に豪快に笑う社長。――の、すぐ横。
社長の足元から、のっそりと巨大な影が這い出してきた。
そこに存在するだけで周囲の空気をピリつかせる、圧倒的な重量感。引き締まった鋼のような筋肉、幅の広い強靭な胸板、ヘビー級の総合格闘家を思わせる鋭い眼光。
犬種は――アメリカン・ピットブル・テリア。名前は『ボス』というらしい。
初めて目の当たりにする本物の大型犬、それも最強の一角と名高いピットブルの威容に、我が家のパグ姉弟は文字通り石のように硬直した。
「フゴ……ッ!?」
一昨日の犬集会で、ビーグルのアリアに早食い一位を奪われて鼻息を荒くしていたあの大福が、今は完全に魂を抜かれたような顔で固まっている。額のシワが恐怖のあまり引き連れ、ギョロ目を限界まで見開いて、ボスの足元を見つめたまま一歩も動けない。
臆病なアズサにいたっては、自慢の漆黒の体を俺のスラックスの裾の裏へと完全に滑り込ませ、この世の終わりを迎えたかのようにガタガタと小刻みに震えていた。門脇さんの腕の中では、ちまきが完全に気配を消して置物のようになっている。
大福、お前のあのフードファイターとしてのプライドはどこへ行ったんだ。
俺が心の中で突っ込んでいると、ピットブルのボスが、その強面をゆっくりとこちらへ向け、地響きを立てそうな足取りで大福たちの方へと近づいてきた。
俺の背中に緊張の汗が流れた、その瞬間――。
『ハァハァハァハァッ! バウッ!』
ボスは、太い尻尾をプロペラ顔負けの勢いで激しく振り回し、大福の目の前でドサリと仰向けにひっくり返ったのだ。そのまま、ピンク色の舌をだらしなく突き出し、広いお腹を見せて「撫でて! 遊んで!」と猛烈なアピールを始めた。
「ガハハ! ボスは見た目こそ強面だが、中身はただの寂しがり屋の甘えん坊なんだ。ほら、パグちゃんたち、ビビらなくていいぞ」
社長が肉をひっくり返しながら笑う。
最強の闘犬ルーツ、しかしその実態は、社長の愛情を一身に受けて育った、最高に人懐っこい「ギャップ萌えの塊」だった。
それでも、自分たちの何倍もの質量を持つボスの、ゼロ距離での激しいヘソ天を前に、大福は未だにバグが起きたようにフリーズしている。
『しゃ、社長の犬だから、愛想笑いでもした方がいいのかな……?』とでも言いたげな、じっとりと情けない顔で、ボスの巨体を見つめ続けていた。
「ふふ、大福くん、完全に固まっちゃってますね」
門脇さんがスリングを抱っこしながら、クスクスと楽しそうに俺の隣で笑った。
「うちの怪獣たちも、本当の大物の前では、ただの小心者になるみたいです」
俺は苦笑しながら芝生にしゃがみ込み、ゴロゴロと甘えるボスの硬い毛並みを優しく撫でてやった。それを見た大福が、ようやく少しだけ安心した(あるいは社長への営業の必要性を感じた)ように「フゴッ」と短く鼻息を漏らし、おずおずと、これまでにないほど腰を低くしてボスの匂いを嗅ぎに歩み寄っていく。その様子は、まるで大物取引先の役員に名刺を差し出す新入社員のようだった。
ジューシーに焼き上がる高級なお肉の煙と、社員たちの賑やかな笑い声。
そして、社長の強面なピットブルに圧倒されつつも、社会人の世渡り(?)を少しずつ学び始めた大福とアズサの姿。
三月のうららかな春の光に包まれた大豪邸の庭で、俺たちの犬まみれの日常は、会社の垣根すら越えて、どこまでも温かく、そして最高に愉快に広がっていくのだった。




