第27話
二〇二六年三月十八日、水曜日。
週の真ん中、仕事の疲れがどっと溜まる平日の夜。風呂上がりの俺は、ローテーブルの前で冷えた缶ビールを開け、一息ついていた。
リビングのフローリングでは、一昨日の「早食い王座決定戦」でビーグルのアリアちゃんに敗北し、未だにどこかプライドをくすぶらせている大福が、不貞寝をするように「フゴ、フゴ」と小さな寝息を立てている。その横では、黒パグのアズサが静かに自分の前足を舐めていた。
夜の八時を回った頃だった。
アパートの薄い天井を抜けて、上階の部屋から、微かに、だけど非常に美しい音色が漏れ聞こえてきた。
キィ……、と弦が擦れる音がしたかと思うと、滑らかで、どこか哀愁を帯びたバイオリンの旋律が静かな夜の空気に溶け出していく。新しく二階に入居してきた音大生、佐竹みきさんが練習を始めたのだろう。
集合住宅での楽器演奏は本来ならトラブルの元だが、ここは住人全員が犬飼いのペット共生アパートだ。大家さんの許可の元、常識的な時間帯であれば、お互いの生活音として温かく受け入れる暗黙の了解があった。
「綺麗な音だな……」
俺がビールの泡をすすりながらその旋律に耳を傾けていた、その時だった。
バイオリンの高音の伸びに合わせるようにして、上階からもう一つの「楽器」が参戦した。
『バウゥゥゥーーーーーン、オォォォォン……!』
ビーグルのアリアちゃんだ。
猟犬の血が音楽の周波数に共鳴したのか、まるで一流のオペラ歌手のように、天井を仰いで一点の曇りもない見事な遠吠えを重ねてきた。バイオリンの主旋律と、ビーグルのソプラノ・ヴォイス。そのあまりにも完璧なセッションに、俺が「お見事」と感心しかけた瞬間、我が家のワンルームの空気が一変した。
ピクッ、と大福のレーダーのような耳が跳ね上がった。
寝ていたはずの体をのっそりと起こし、天井をキョロキョロと見つめる。その隣で、アズサもまた額のシワを限界まで寄せて、じっと上空の音に聞き入っていた。
一昨日のライバルの歌声。それが、大福の中の何かに火をつけたらしい。
大福は、短い首をこれでもかと上方に伸ばし、小さな胸を張った。負けてたまるか、とでも言うように、潰れた口を「お」の形にすぼめる。
「え、お前、まさか――」
『ブ、フゥゥゥーーーオォォォン! フゴォォォーーー!!』
我が家に響き渡ったのは、お世辞にも美しいとは言えない、だけど凄まじくソウルフルなパグの遠吠えだった。
オオカミのような格好良さは皆無で、まるで壊れたサイレンか、あるいは新幹線のトイレの吸引音のような、濁った重低音のビブラート。これには上のアリアちゃんも一瞬、音程を外しそうになったに違いない。
さらに、それに引きずられるようにして、普段は臆病なアズサまでが、小さな体を震わせながら参戦した。
『キャウン、アォォォーーーゥ、ブフッ!』
アズサの遠吠えは、どこか子犬の悲鳴のようで、これまた妙に情けない。
二階から響く、バイオリンの美しい旋律とアリアの気高いソプラノ。
一階から響く、大福のブルドーザーのような重低音とアズサのキリキリとしたハイトーン。
それは、潮風が通り抜ける住宅街の片隅で突如として結成された、前代未聞の「犬アパート合唱団」だった。床と天井を挟んだ境界を超えて、四つの命の音が、春の夜の空気の中でカオスなハーモニーを奏察でていく。
「おいおい、お前ら、近所迷惑だから……って、あ、ここ全員犬飼いだったな」
俺は慌てて二匹を止めようとした手を引っ込め、思わず吹き出してしまった。
足元では、大福とアズサが交互に首を揺らしながら、大真面目な顔で歌い続けている。アリアに早食いで負けた大福にとっては、これが彼なりのリベンジのセッションなのだろう。
窓の外を見上げると、三月の少し朧げな月が、優しくアパートを照らしていた。
ほんの数ヶ月前までは、この部屋には俺の一人分の足音と、テレビの雑音しかなかった。それが今では、二匹のパグのいびきが増え、上の階の新しい仲間たちの音とまで、こうして響き合っている。
合唱は、バイオリンの最後の長いビブラートが終わると同時に、ピタリと鳴り止んだ。
大福は、やりきったと言わんばかりの満足げな顔で天井に向かって「フンッ」と鼻を鳴らし、まるでベテランのジャズミュージシャンのようなドヤ顔を浮かべた。それから、何事もなかったかのように再び床にごろりと横たわった。
静寂が戻ったワンルームで、俺は残りのビールを喉に流し込んだ。
少し騒々しくて、だけど最高に愛おしい、春の夜のひととき。明日からの仕事もなんとか乗り越えられそうな、不思議な活力を貰った――。
そう思ったのは、この夜の時点でのことだった。
翌朝、アパートの住人専用のLINEグループに、大家さんから一通のメッセージが届くまでは。
『昨夜の、二階と一階の素晴らしい大合唱について、少しお話があります』
スマートフォンの画面を見つめたまま、俺の口から思わず「ゲッ」と短い悲鳴が漏れた。




