第26話
二〇二六年三月十六日、月曜日の午後。
新しく入居してきた音大生の佐竹みきさんと、ビーグルのアリアちゃん。大家さんの部屋に集まった俺たちは、新しい仲間の歓迎ムードで大いに盛り上がっていた。
犬たちが一頻り挨拶代わりのクン活を終えた頃、多頭飼いの大先輩である大家さんが、ポンと手を叩いて笑顔を浮かべた。
「よしよし、みんな仲良くなれそうだね。じゃあ、みきちゃんの歓迎と、ワンちゃんたちのお近づきの印に、ちょっとしたオヤツタイムにしようかね」
大家さんが台所から取り出してきたのは、犬用のヘルシーな小粒のドライフードだった。
だが、さすがは犬たちの特性を熟知している大家さんだ。用意されたプラスチックの器の底には、複雑な迷路のような突起がついている。犬がフードを噛まずに丸呑みする『早食い』は、胃がねじれる原因になるため、簡単には食べられない仕組みになっている「早食い防止皿」だ。
「さあ、みんな並んで。ケンカしちゃ駄目だよ」
器がそれぞれの足元に置かれた瞬間、我が家のフォーン色の弾丸――大福の目の色が変わった。
大福にとって、食べることこそが生きる喜びであり、プライドそのものだ。これまでの犬集会では、その圧倒的な吸引力で、佐藤のダックスや大家さんのポメラニアンを抑え、常に「早食いぶっちぎり一位」の座を死守してきたのだ。
「大福、落ち着け。ゆっくり食べろよ」
俺が声をかけるのと同時に、大家さんの「よし」の合図が響いた。
「フゴガガガガガッ!!」
大福は潰れた鼻を器の突起の隙間に強引にねじ込み、ブルドーザーのような勢いで粒を吸い込み始めた。その凄まじい執念に、佐藤のダックス・コタロウや黒パグのアズサは一歩引いてドン引きしている。よし、今日も大福の圧倒的勝利か――そう確信した、次の瞬間だった。
「シャクシャクシャクシャクシャクシャク!!」
俺たちの鼓膜に、大福の濁った鼻息とは明らかに違う、まるで精密機械が超高速でタスクを処理していくような、恐ろしく軽快で鋭い咀嚼音が飛び込んできた。
視線の先にいたのは、新参のビーグル、アリアちゃんだった。
彼女は猟犬としての驚異的な身体能力と、信じられないほど器用な舌の動きを駆使し、早食い防止皿の突起など存在しないかのように、フードを次から次へとリズミカルに口の中へ放り込んでいく。そのスピードは、大福の泥臭い吸引力を遥かに凌駕していた。
カラン、と乾いた音が響く。
合図からわずか十数秒。アリアちゃんは、自身の器を完璧なまでにピカピカに舐め上げ、綺麗な「お座り」の姿勢で「もっとありませんか?」と言わんばかりに、みきさんの顔を見上げていた。
第一位、ビーグルのアリア。
その数秒後、遅れて「フゴォッ!?」と顔をあげた大福の目の前には、まだ数粒の残骸が残った自分の器があった。
「大福……負けたな」
佐藤が気の毒そうな声で呟いた。
大福は、自分の器に残ったフードを一瞬見つめた後、ゆっくりとロボットのようなぎこちなさで首を巡らせて、アリアちゃんの方を見た。
そのギョロリとした大きな目は、生まれて初めて「敗北」を知った格闘家のように驚愕に震えていた。額のクシャクシャなシワがこれでもかと中央に寄り、短い尻尾はピンと上を向いたままフリーズしている。
「ふふっ」
その様子を見ていたお隣の門脇さんが、悪戯っぽく微笑みながら俺を見た。
「浅野さん、大福くん、昨日のバナナの時はあんなに完璧な怪盗だったのに、今日は完敗ですね」
「本当ですよ。上には上がいるもんだな、大福」
「フゥーーーッ! フゴッ、フゴォーーーッ!!」
現実を受け入れた大福は、残りのフードを悔しそうに一気に飲み干すと、アリアちゃんに向かって猛烈な鼻息を噴射し始めた。
『おいお前! 新入りのくせに、俺の聖域の座を奪うなんていい度胸じゃねぇか!』とでも言いたげな、凄まじいライバル心の燃焼だった。その横では、黒いアズサが「お兄ちゃん、もうやめときなよ……」とばかりに、さらに万次郎の影へと深く身を隠していた。
対するアリアちゃんは、大福の威嚇などどこ吹く風で、ペロリと鼻の頭を舐め、完全にマイペースを保っている。
「あはは! アリア、本当に食べるのだけは早くてごめんなさい! 大福くん、怒っちゃったかな?」
みきさんが恐縮しながら笑う。
「いや、いいんです。大福はいつも早食いしすぎるから、これくらい鼻をへし折ってくれるライバルが現れた方が、健康のためには丁度いいんですよ」
俺は苦笑しながら、鼻息を荒くしてアリアちゃんをガン見し続けている大福の短い胴体を、がっしりと抱きかかえて宥めた。
絶対王者の敗北と、最強のライバルの出現。
三月の穏やかな午後のリビングで、大福の胸の中には、かつてないほどの激しい闘志の炎が燃え上がっていた。
新しく加わった凸凹な関係性に呆れつつも、俺はこれからの犬集会がさらに賑やかで予測不能なエンタメになることを予感し、可笑しさに肩を揺らすのだった。




