第25話
二〇二六年三月十六日。
月曜日。先々週のドッグランデビュー、そして先週末のホワイトデーの怒濤の休日出勤のご褒美として、俺は今日、会社から代休を貰って完全なオフを満喫していた。
お昼過ぎ、大福とアズサを連れて、一階にある大家さんの部屋へと向かった。今日は定期的に開催される、アパートの『犬好き集会』の日だ。
大家さんの部屋に上がると、すでにいつものメンバーである佐藤とダックスのコタロウ、解してお隣の門脇さんとチワワのちまきが寛いでいた。
挨拶を済ませて座ると、門脇さんが真っ先に、あの「ベランダに迷い込んできたキャバリア」のその後の顛末を教えてくれた。
「浅野さん、あのキャバリアの件なんですけど、無事に解決したんです。警察からも元の飼い主さんの届け出は結局出なくて……。そしたら、最初は戸惑っていた大学生の弟がね、『僕がバイトを増やしてでも、この子を生涯の家族として新しく飼う!』って覚悟を決めたんです。実家の両親も仕送りを少し支援してくれることになって、正式に弟の犬として引き取ることになりました」
「へぇ、それは良かった! 弟さん、男前ですね」
俺は心から安堵して、アズサの黒い頭を優しく撫でた。かつてアズサを引き取る時に、同じように「一人暮らしのサラリーマンに二匹目は無茶だ」と葛藤した身として、弟さんの「命を背負う覚悟」が痛いほど分かり、自分のことのように嬉しかった。
温かいほうじ茶を飲みながらそんな話をしていると、大家さんの部屋のインターホンが軽やかに鳴り響いた。
「おや、噂をすれば、今日から新しく私たちのコミュニティに加わる、新しい入居者さんがいらしたみたいだね」
大家さんが嬉しそうに玄関を開けると、そこには、大きなリュックを背負い、バイオリンのケースのようなものを肩に下げた、二十歳前後の若い女性が立っていた。
「初めまして! 今月からこのアパートの二階に入居しました、佐竹みきです。市内の音楽大学に通っています。……ほら、アリア、皆さんに挨拶して」
彼女の足元から、フォーンとも黒とも違う、白と茶色と黒が綺麗なパッチワークのように並んだ、鮮やかな三色の毛並みを持った犬が、元気いっぱいに顔を出した。
犬種は――ビーグル。名前は『アリア』というらしい。
ビーグルといえば、あのスヌーピーのモデルとしても有名だが、元々は集団で獲物を追う猟犬だ。そのルーツの通り、アリアちゃんは部屋に入った瞬間から、床に落ちている全員の匂いを「スンスンスンスン!」と、凄まじい吸引力でクン活し始めた。
「フゴッ!?」
「ブフッ……!」
我が家の凸凹パグ姉弟は、自分たちより一回り大きい「中型犬」の突然の襲来に、完全にキャパシティをオーバーしていた。
大福は額のシワをこれでもかと寄せて俺の股の間に頭を突っ込んで現実逃避を始め、アズサにいたっては、アリアちゃんの圧倒的な陽のエネルギーに圧されて、大先輩である黒ペキニーズ・万次郎の影にスッと隠れてガタガタと震えている。
「あ、ごめんなさい! アリア、初対面の人やワンちゃんが大好きで、ちょっとテンションが上がっちゃって……。音大生の一人暮らしでビーグルを飼うなんて無茶だって、周りからは散々言われたんですけど、この子のこの元気な姿に、私の方が毎日救われてるんです」
佐竹みきさんは、少し照れくさそうに笑いながら、アリアちゃんの首元を愛おしそうに撫さすった。
音楽大学での日々の練習と、元気すぎる中型犬との暮らし。防音対策や散歩の時間管理など、きっと彼女もまた、この街で多くの葛藤を抱えながら、必死にこの小さな命を守っている『同志』の一人なのだろう。
「バウッ! バウウゥーーー」
突如として、アリアちゃんが天井を仰ぎ、ビーグル特有の、トランペットのようによく通る、美しくも大きな『遠吠え』をフロア中に響かせた。
あまりの美声の爆音に、チワワのちまきが門脇さんの腕の中で「なんてハレンチな大声かしら」とばかりにフイッと顔を背け、俺たちは思わず大爆笑してしまった。その見事な発声には、なるほど音大生の愛犬としての「英才教育」の成果を感じずにはいられない。
門脇さんの弟さんの新しい決断。そして、新しくアパートにやってきた、音大生のみきさんとビーグルのアリアちゃん。
三月の穏やかな代休の午後、大家さんの部屋の窓から差し込む春の光の中で、俺たちの小さな犬好きコミュニティには、また新しく、そして最高に賑やかな「物語の音色」が響き渡り始めていたのだった。




