第24話
二〇二六年三月十四日。
土曜日。世間がホワイトデーの甘いイベントに浮き足立つ中、俺は朝から会社のデスクで、猛然とキーボードを叩いていた。
前日の金曜日の夜遅く、急遽舞い込んできた新規案件のトラブル対応。上司からの「本当に申し訳ないが、明日出勤してくれないか」という悲痛な電話に、会社員としての義務感が首を縦に振らせたのだ。
ケージの中から「また仕事かよ」と言いたげなギョロ目を向けてくる大福とアズサに、多めの留守番用おやつを預け、俺は宇品のアパートを飛び出してきた。
先月のバレンタインデーも休日出勤だった。どうやら俺の二〇二六年の冬は、土曜日のオフィスに不思議な縁があるらしい。
夕方の五時を過ぎ、ようやくトラブルの火消しが完了した。
大きく伸びをして、静まり返ったオフィスを見渡す。フロアの明かりは半分ほど落とされ、休日出勤をしている社員もほんの数人しか残っていない。
デスクの引き出しから、昨日お洒落な洋菓子店で調達し、今朝厳重にカバンに忍ばせておいたクッキーアソートの小さな紙袋を取り出す。
フロアの奥――経理部の島に目をやると、ぽつりと一つの明かりが灯っていた。そこには、平日の一糸乱れぬスーツ姿とは少し違う、サックスブルーのカーディガンを羽織った門脇さんの姿があった。彼女もまた、別案件の数字の締め処理のために急遽出勤していたようだった。
俺は深く息を吸い込み、紙袋を右手に握りしめて、静かなフロアを歩いた。
「門脇さん、お疲れ様です。遅くまで大変ですね」
「――あ、浅野さん。お疲れ様です。浅野さんこそトラブル対応だったんですね、大変でしたね」
パソコンの画面から顔を上げた門脇さんは、少し疲れたような、だけど俺の姿を見てホッとしたような、柔らかい笑みを浮かべた。フロアに残された二人だけの空間に、少しだけ小恥ずかしいような空気が流れる。
「これ……もしよかったら、先月のバレンタインのお返しです。一応、甘さ控えめのやつを選んでみたんですけど」
俺が少しぶっきらぼうに紙袋を差し出すと、門脇さんは一瞬、丸い目をパチクリとさせて驚いたような表情を浮かべた。それから、じわじわと嬉しそうな満面の笑みを咲かせた。
「わあ……! ありがとうございます! 覚えていてくれたんですね」
「もちろんです。ただ、その……」
「? どうかしたんですか?」
門脇さんが不思議そうに首を傾げる。俺は頭を掻きながら、昨夜我が家で起きた大惨事を白状することにした。
「いや、実は昨日の夜、自分用に買ったバナナチップスをローテーブルに置いてトイレに行ったら、大福とアズサがクッションを踏み台にして、結託して全部盗み食いしやがりまして……。このクッキーの袋も危うく奴らの魔の手に落ちるところだったんです。なんとか俺がクローゼットの奥に隠して、命からがら死守してきたお返しなんです」
俺が真面目な顔でそう言うと、門脇さんは一瞬きょとんとした後、お腹を抱えるようにして「ふふっ、あははは!」と声を上げて笑い出した。静かなオフィスに、彼女の鈴の鳴るような澄んだ笑い声が心地よく響き渡る。
「パグちゃんたちのチームプレー、凄すぎますね! 大福くんもアズサちゃんも、本当にバナナのためなら天才になっちゃうんだから」
「本当に泥棒姉弟ですよ。でも、無添加のやつにしておいたので、幸い今日も二匹ともケロッとしてます」
「ふふ、浅野さんがちゃんとお利口なバナナを選んでおいて良かったです。このクッキー、ちまきに自慢しながら、お家で大切にいただきますね」
門脇さんは、洋菓子店のロゴが入った紙袋を、サックスブルーの胸元で宝物でも扱うかのように愛おしそうに両手で抱きしめた。そのあまりにも嬉しそうな姿に、俺の胸の奥の緊張は、すっと温かいものへと溶けていくようだった。
「それじゃあ、俺はこれで失礼します。二匹が家でバナナの禁断症状を起こして暴れてるかもしれないので」
「はい、お疲れ様でした。私もこれでお仕事終にする。……浅野さん、本当にありがとうございました」
背中にかけられた彼女の温かい声に見送られながら、俺はオフィスの自動ドアをくぐった。
外に出ると、三月の少し冷たい夜風が湾岸に近いオフィス街を吹き抜けていったけれど、俺の足取りは驚くほど軽かった。
手元から紙袋が消えた代わりに、カバンの中にはさっきまでの疲労を遥かに上回る、心地よい充実感が残っていた。
アパートに帰れば、きっとまた、お腹を空かせたフォーンと黒の怪獣たちが、盛大な鼻息で行く手を阻んでくるだろう。俺は愛おしい我が家への帰路を急ぎながら、少しだけ特別な、三月十四日の夜の静寂を噛み締めていたのだった。




