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本当の名前

 北方監視塔の内部は、外よりも寒かった。


 石造りの壁に凍りついた血が張りつき、床には砕けた魔導銃の部品が散らばっている。祭具、弾倉、折れた聖銀剣。人が戦い、負け、連れ去られた痕跡だけが残っていた。


 俺は息を殺しながら、魔導盤を開く。


 赤い反応はない。


 それが、逆に不気味だった。


「生存者は?」


 カイルが低く尋ねる。


 彼の部隊の聖女たちが各階を確認している。こちらはレイナが前、リリスが右、ユアが俺の隣、ノエルが後方。さっきまで俺を押し倒す順番で揉めていたとは思えないほど、四人の空気は鋭かった。


「二階に聖痕反応があります」


 ユアが祈祷布を握りしめる。


「ただし……弱いです」


 俺たちは階段を上がった。


 二階の通信室には、ひとりの聖女が倒れていた。


 年齢は十七、八ほど。カイルの部隊の聖女ではない。監視塔付きの通信聖女だろう。胸元の聖痕は黒く灼け、腕には魔導通信器の管が食い込んでいた。無理やり通信を続けたのだ。


 ユアが駆け寄り、膝をつく。


「まだ息があります」


「治せるか」


「命は繋げます。ですが、聖痕が……」


 ユアの声が曇った。


 その聖女は薄く目を開け、俺たちではなく、天井を見た。


「……司令官、ですか」


 誰を呼んだのか分からなかった。


 この世界には、俺以外にも司令官がいる。彼女にも、自分の司令官がいたのだろう。命令をくれて、帰れと言ってくれて、名前を呼ぶことを許されない誰かが。


「ここにいる」


 俺は嘘にならないぎりぎりの声で答えた。


 彼女の唇が震える。


「みんな、下へ……連れて、いかれました。聖痕を、抜かれる。司令官に、伝えて……わたしたちは、まだ……」


 声が途切れる。


 ユアの治癒光が強まった。リリスが唇を噛み、レイナは拳を握り、ノエルは片眼鏡の奥で静かに目を細める。


 カイルが俺を見る。


「地下か」


「たぶん」


 俺は魔導盤を叩く。反応は乱れている。監視塔そのものに妨害術式が埋め込まれていた。敵は最初から、救助に来た司令官と聖女部隊を地下へ誘導するつもりだったのだ。


「罠だな」


 カイルが言う。


「罠でも行く」


「分かっている」


 彼の声には迷いがあった。だが、引く気はなかった。


 それなりに指揮能力がある、という評価は正しい。カイルは俺ほど盤面を読めないかもしれない。けれど、自分の聖女を見捨てる男ではない。


 地下への扉は、通信室の奥に隠されていた。


 階段を降りるほど、銃声の幻聴が聞こえた。いや、幻聴ではない。壁の中に刻まれた魔導録音が、死ぬ直前の戦闘音を繰り返しているのだ。


 撃て。


 祈れ。


 退け。


 司令官、命令を。


 司令官、どこですか。


 リリスの手が震えた。


「ああいう声、嫌い」


「聞くな。俺の声だけ拾え」


 そう言うと、リリスは泣きそうに笑った。


「うん。そうする。司令官の声だけなら、あたし、何度でも戦える」


 重い返事だった。


 だが、今はその重さに救われる。


 地下最下層は、処理場だった。


 聖堂でも、納骨堂でもない。冷たい鉄の台が並び、その上に、壊れた聖女たちが寝かされていた。生きている者もいる。死んでいる者もいる。胸元の聖痕に黒い管が刺さり、抜き取られた聖なる魔力が、天井の巨大な魔導銃へ集められている。


 銃と魔法。


 人を守るはずの二つが、ここでは祈りを撃ち殺すための形をしていた。


「最低だ」


 カイルが呟く。


 その声に、俺は初めて彼への共感を覚えた。


 中央に魔族が立っていた。


 白い法衣をまとい、顔のない頭部に金色の仮面をつけている。手には指揮杖。まるで司令官の真似事だ。


『ようこそ、司令官たち』


 魔族の声が、複数の人間の声を重ねたように響く。


『聖女は美しい。祈り、戦い、壊れ、なお司令官を求める。その忠誠は、実に加工しやすい』


 レイナが前に出る。


「黙れ」


『お前たちは名を知らぬ男に従う。名も知らぬまま愛し、名も知らぬまま死ぬ。滑稽だ』


 その瞬間、四人の気配が揺れた。


 俺は息を呑む。


 敵は分かっている。レイナたちが、俺の名前を知りたがっていることを。役職ではなく、俺自身を呼びたいと飢えていることを。


『知りたいだろう。お前たちの司令官の名を』


 魔族の仮面が笑った気がした。


『我らは知っている。貴族の血筋も、弱き肉体も、父の病も――』


「リリス!」


 俺が叫ぶより早く、リリスが撃った。


 聖属性弾が仮面を砕く。だが、魔族は霧のように揺らぎ、別の場所へ現れた。


「司令官のことを、あたしたちより先に呼ぶな」


 リリスの声は低かった。


「名前を知ってるからって、何? それで司令官に近い気になるな」


 ユアが祈祷布を握る。


「知りたいです。知りたいに決まっています。でも、奪うように知る名なら、わたしは祈りません」


 ノエルが狙撃銃を構えた。


「焦らされるのは嫌いではありません。ですが、他人の口から与えられるのは興ざめです」


 レイナが俺の前に立つ。


「司令官が許す日まで、私は待つ。だから、その名を汚す口を閉じろ」


 胸が痛くなった。


 四人は知りたいのだ。


 でも、俺が渡すまで待っている。


 その我慢が、愛であり、呪いであり、彼女たちをぎりぎり人の形に保つ楔なのだと思った。


 魔族が指揮杖を振る。


 鉄台の聖女たちから抜かれた光が、天井の魔導銃へ集まる。砲口がこちらを向く。聖痕を反転させた呪砲。撃たれれば、聖女だけでなく司令官の通信魔力も焼かれる。


「カイル、障壁!」


「間に合わない!」


 俺は魔導盤を見た。


 敵の砲撃は強い。だが、集束が遅い。聖痕の管を切れば止まる。しかし台の上の聖女たちを傷つけずに管だけを断つには、精密射撃が必要だ。


「ノエル、上部の管を撃て。一本ずつじゃない。反射弾で三本まとめて」


「角度が足りません」


「リリス、右壁に炸裂弾。破片で反射面を作る」


「了解!」


「レイナ、中央突破。魔族を斬るな、杖を落とせ。ユア、聖女たちの聖痕を保護。カイル、君の部隊で左列の拘束具を壊せ」


「任された!」


 戦場が動いた。


 リリスの炸裂弾が壁を砕き、黒い石面が露出する。ノエルの狙撃弾がそこへ跳ね、ありえない角度で管を断った。ユアの白い祈りが鉄台を包み、苦しむ聖女たちの呼吸を繋ぐ。カイルの部隊が拘束具を破壊し、レイナの剣が魔族の杖を弾き飛ばした。


 砲撃が逸れる。


 呪いの光が天井を貫き、監視塔全体が揺れた。


 瓦礫が降る。


 俺は避けようとして、足がもつれた。


「司令官!」


 四人の声が重なる。


 次の瞬間、俺は床に押し倒されていた。


 レイナが上から覆い、リリスが横から俺の腕を抱え、ユアが胸元に結界を張り、ノエルが背後から外套を引いて頭を守っている。


 完全に固定された。


 動けない。


「……重い」


「生きている証拠です」


 レイナが真顔で言う。


「司令官、男なのにまた力負けしてる」


 リリスがこんな状況で笑う。


「今それ言うか」


「言う。だって、怖かったから。笑わないと泣く」


 ユアが俺の頬に触れた。


「司令官が弱くて、よかった」


「よくない」


「いいえ。弱いから、わたしたちはこうして守れます。強かったら、きっと一人で行ってしまうから」


 ノエルが耳元で囁く。


「名前を知らないあなたを、こんなに近くで守れる。少しだけ、罰が当たりそうですね」


 甘い。


 重い。


 暗い地下で、血と火薬と聖光の匂いに包まれながら、俺は四人の体温に閉じ込められていた。


 だが、戦闘は終わっていない。


 魔族は杖を失っても、まだ動いている。砕けた仮面の奥に、無数の口が開いた。


『では、教えてやろう。お前たちの司令官の名は――』


「黙れ」


 俺は通信石を握った。


 魔力は少ない。体も動かない。聖女たちに押さえ込まれ、情けないほど無力だ。


 それでも、声だけは出る。


「俺の部隊に、俺の名前を渡す権利はお前にはない」


 四人の体が震えた。


「いつか俺が、自分で言う。それまで、誰にも奪わせない」


 レイナの瞳が熱を帯びる。


 リリスが息を呑む。


 ユアが泣きそうに微笑む。


 ノエルが片眼鏡の奥で目を細める。


「だから今は、司令官と呼べ」


 四人の声が重なった。


「了解、司令官」


 その瞬間、彼女たちは動いた。


 レイナの聖銀剣が魔族を壁へ縫い止め、リリスの双銃が口を撃ち抜き、ユアの祈りが呪いを白く焼き、ノエルの狙撃が核を貫いた。


 魔族は、俺の名を口にする前に消滅した。


 地下に静寂が戻る。


 救出された聖女たちの弱い呼吸だけが聞こえた。


 俺は床に寝転んだまま、深く息を吐く。


 カイルが近づいてきて、呆れたように言った。


「君の部隊は、強いな」


「強すぎて、俺がよく床に沈む」


「それも含めて、強いんだろう」


 リリスが俺の上から退きながら、涙を拭った。


「ねえ、司令官。いつか、ほんとに教えてね」


 ユアが頷く。


「あなたの名を、祈りではなく、祝福として呼びたいです」


 ノエルが微笑む。


「それまでは、空白ごと愛します」


 レイナが俺の手を取る。


「司令官。私は待てます。ですが、待つ時間が長いほど、重くなります」


「もう十分重い」


「では、もっと強くなります」


「重さの話だ」


 四人が小さく笑った。


 暗い地下で、壊れた聖女たちのそばで、それでも笑えたことに、俺は少しだけ救われた。


 この世界は残酷だ。


 祈りは武器にされ、聖痕は奪われ、司令官の名すら敵の餌になる。


 それでも、俺はまだ命令できる。


「全員、帰還する。救助者を連れて、地上へ戻る」


 四人は同時に頷いた。


「了解、司令官」


 その呼び名は、今までで一番甘く、重く、そして確かだった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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