声
ノエルが加わって最初の任務は、祝宴ではなく死体の確認だった。
東の森のさらに奥。魔族領との境界に近い旧礼拝砦で、偵察部隊が消息を絶った。残された通信記録は三秒だけ。悲鳴も、戦闘音もなく、ただ銃声と祈りの断片だけが入っていた。
俺は王城地下の作戦室で、その音を何度も聞かされた。
乾いた魔導銃の発射音。直後に、聖句が途切れる音。
それだけで、部屋の空気が冷たくなった。
「司令官、顔色が悪いです」
レイナが俺の椅子の後ろに立っている。騎士用の白銀鎧ではなく、黒い外套をまとった夜戦装備。腰の聖銀剣には、魔力を遮断する封蝋が巻かれていた。
「元からだ」
「では、いつもより悪いです」
「言い直しても嬉しくない」
リリスが魔導銃の弾倉を机に並べていた。聖属性弾、炸裂弾、照明弾、封魔弾。小さな弾丸ひとつひとつに術式が刻まれ、青白い光を脈打たせている。
「あたしは嫌いだな、この任務。敵の姿が見えないのに、味方だけ消えてる。そういうの、だいたい性格悪い奴の仕業だよ」
「魔族相手に性格の良さを期待するな」
「司令官を怖がらせる奴は、全員性格悪い」
「基準を俺にするな」
ユアは黙っていた。
祈祷布を指先でなぞりながら、薄く目を伏せている。普段なら柔らかく微笑む彼女が、今日は表情を失っていた。
「ユア?」
「……旧礼拝砦には、聖堂の見習いが二人いました。まだ、正式な聖女ではありません。戦うためではなく、負傷者を祈りで眠らせるための子たちでした」
俺は言葉を失った。
戦場は兵だけを殺すわけではない。祈る者も、運ぶ者も、帰りを待つ者も、平等に呑み込む。
ノエルが壁際で片眼鏡を直した。背には長大な魔導狙撃銃。優雅な仕草なのに、その瞳は冷たく澄んでいる。
「生存者がいる可能性は低いです。ですが、遺体が残っているなら回収すべきです。聖痕を奪われる前に」
「聖痕を?」
俺が聞くと、ユアの指が止まった。
レイナが代わりに答える。
「聖女の力は、肉体に刻まれた聖痕を核にしています。死後すぐなら、魔族はそれを汚染して兵器にできます」
リリスが弾倉を押し込む。
「聖女の死体で作った魔導銃弾。最悪だよ。撃たれたら、祈りの形をした呪いが体内で咲く」
胸の奥が重く沈んだ。
この世界の聖女は、ただ崇められる存在ではない。騎士も、銃士も、治癒師も、狙撃手も、聖痕を宿した女たちは全員、聖なる兵器として扱われる。祈りは盾になり、剣になり、弾丸になる。だからこそ、死んでも戦場から解放されない。
「回収する」
俺は言った。
四人がこちらを見る。
「生存者がいれば救助。遺体なら回収。聖痕の汚染は阻止する。敵の正体が分からない以上、レイナは前衛で防御線、リリスは中距離制圧、ユアは浄化と救護、ノエルは後方狙撃。俺は砦の外から通信指揮を――」
「却下します」
四人の声が重なった。
俺は固まった。
「……まだ最後まで言ってない」
レイナが淡々と続ける。
「砦の外は安全ではありません。司令官は私たちの中心にいてください」
「中心のほうが危なくないか?」
「私の手が届きます」
リリスが身を乗り出す。
「あたしの射線にも入るしね。変な奴が近づいたら、司令官に触る前に穴だらけ」
「俺に当てるなよ」
「当てないよ。司令官以外には」
「今の言い方が怖い」
ユアが俺の袖をそっと掴んだ。
「司令官が遠くにいると、心が冷えます。近くにいてください。わたしがすぐ治せる距離に」
ノエルがにこりと笑う。
「わたしは遠くても司令官を見ていますが、近いほうが表情まで観察できます」
「観察するな」
「では、見守ります」
「言い換えただけだ」
重い空気の中に、妙な甘さが混じる。
笑える状況ではないはずなのに、四人の圧が強すぎて、俺は少しだけ肩の力が抜けた。
出撃は夜になった。
旧礼拝砦は、月明かりの下で黒い墓標のように立っていた。崩れた尖塔。焼けた聖堂旗。門の前には、白い祈祷布が泥にまみれて落ちている。
俺は四人に囲まれて歩いた。
前にレイナ。右にリリス。左にユア。後ろにノエル。
完全に護送されている。
「俺、捕虜か?」
「大切な司令官です」
レイナが即答した。
「扱いが厳重すぎる」
「逃げるので」
「逃げてない」
リリスが笑った。
「司令官、危ない時ほど自分から危ない場所に行くじゃん。あれは逃亡だよ。安全からの逃亡」
「変な理屈を作るな」
ユアが小さく囁く。
「でも、捕まえていられるなら、少し安心します」
やめろ。声が甘い。
砦の中は、地獄だった。
壁に弾痕がある。床に血がある。祭壇の上には、折れた魔導銃と、半分だけ焼けた祈祷書。遺体はなかった。あるべきものがないことが、かえって恐ろしい。
ノエルが膝をつき、床の血痕を見た。
「引きずられています。地下へ」
俺は喉を鳴らした。
「地下構造は?」
「旧礼拝堂の地下納骨堂です」
ユアの声が震えた。
「聖女の遺骨を納める場所でした」
その瞬間、通信石に雑音が走った。
ざり、と耳の奥を舐めるような音。
そして、女の子の声が聞こえた。
『たすけて』
ユアが息を呑む。
「見習いの子です」
リリスが銃を構えた。
「罠だよ」
「分かってる」
俺は魔導盤を開いた。地下に赤い光点がある。多い。だが、その中心に青白い反応が二つ残っていた。
生存者か。
それとも、餌か。
「司令官」
レイナが振り返る。
彼女の瞳は、俺の命令を待っていた。
俺は怖かった。逃げたかった。地下なんて行きたくない。俺は非力で、暗い場所も、血の匂いも、死体も苦手だ。
けれど、助けを呼ぶ声を聞いてしまった。
「降りる。陣形を崩すな」
地下への階段は、湿った祈りの匂いがした。
一段降りるたびに、空気が重くなる。壁には古い聖句が刻まれているのに、その隙間から黒い蔦のような魔力が這い出していた。
最下層で、俺たちはそれを見た。
納骨堂の中央。白い棺の上に、二人の見習い聖女が吊るされていた。生きている。だが、胸元の聖痕に黒い針が刺さり、祈りが呪いへ変えられようとしている。
その足元に、魔族がいた。
人の形をしているが、顔がない。代わりに、無数の口だけが黒い皮膚に開いている。
『司令官』
口たちが、俺たちの声を真似た。
『司令官、助けて』
『司令官、こっちを見て』
『司令官、わたしだけを選んで』
四人の気配が一瞬で変わった。
レイナの殺気が凍りつき、リリスの銃口が震え、ユアの祈りが乱れ、ノエルの片眼鏡にひびが入る。
敵は、彼女たちの心を読んでいる。
彼女たちが俺に向ける、重くて甘くて危うい感情を、声にして弄んでいる。
「司令官の声を真似るな」
レイナが剣を抜いた。
「司令官を呼ぶ口を、全部潰す」
リリスの瞳が暗く沈む。
「ねえ、司令官。撃っていい? あれ、跡形もなくしていい?」
ユアは微笑んでいた。
だが、涙を流していた。
「司令官を穢す声は、祈りで焼きます」
ノエルが狙撃銃を構える。
「わたし、今少し妬いています。あんな声でも、司令官を呼べることに」
「全員、聞け」
俺は震える声で言った。
怖い。足が竦む。敵よりも、彼女たちが壊れていくことのほうが怖い。
「怒るなとは言わない。でも、俺を見ろ」
四人の視線が、俺に集まる。
「俺はここにいる。あれは偽物だ。お前たちの感情を餌にしているだけだ。だから、呑まれるな」
レイナの瞳が揺れる。
「では、命令を」
俺は魔導盤を見た。
敵は中央。人質は上。足元に魔力線。普通に撃てば、聖痕が汚染される。だが、ノエルの狙撃なら針だけを抜ける。リリスの弾幕で口を潰し、レイナが本体を拘束し、ユアが即座に浄化する。
「ノエル、黒針を撃ち抜け。リリス、敵の口を黙らせろ。レイナ、斬るな、縫い止めろ。ユア、二人を取り戻せ」
四人が同時に息を吸う。
「了解、司令官」
ノエルの狙撃が、祈りのように静かに走った。
黒針が砕ける。
リリスの魔導銃が火を噴き、無数の口を撃ち潰す。レイナの聖銀剣が敵の影を床へ縫い止め、ユアの白い光が納骨堂を満たした。
魔族が絶叫する。
『司令官、司令官、司令官――』
「俺の部隊を、俺の声で呼ぶな」
俺は通信石を握りしめ、ありったけの魔力を乗せた。
「彼女たちは、俺の命令で帰るんだ」
白光が弾けた。
魔族の影が焼け落ち、納骨堂に静寂が戻る。
見習い聖女たちは生きていた。ユアが泣きながら抱きしめ、リリスが周囲を警戒し、ノエルが崩れた天井を狙い続ける。
レイナだけが、俺の前に立っていた。
「司令官」
彼女の声はかすれていた。
「あなたの本当の名を、知りたいと思ってしまいました」
俺は息を止めた。
リリスも、ユアも、ノエルも、こちらを見る。
「司令官だけでは足りないのです。役職ではなく、あなた自身を呼びたい。ですが、知ってしまえば、もっと戻れなくなる気がします」
リリスが小さく笑った。泣きそうな笑顔だった。
「あたしも。名前、知りたい。でも知ったら、寝言でも呼んじゃいそうで怖い」
ユアは胸を押さえた。
「知らないから、祈りの中で何度も『司令官』と呼べます。けれど、本当は……」
ノエルが片眼鏡を外し、静かに言った。
「司令官。あなたはずるいです。名前を知らないだけで、わたしたちはずっと飢えたままでいられる」
重い。
苦しい。
けれど、逃げたくない。
俺は四人を見た。
「今はまだ、司令官でいさせてくれ」
ひどい答えだと思った。
それでも、四人は受け入れた。
レイナは俺の手を取り、リリスは袖を掴み、ユアは祈るように目を伏せ、ノエルは甘く微笑む。
「はい、司令官」
四人の声が重なった。
その響きは、祈りより重く、呪いより甘かった。




