第9話 毒針の傷
初依頼を終えた昼下がり、ミナたち四人の帰り道は、思っていたより穏やかだった。
小洞窟を出た後、四人は街道へ戻るために林の中を歩いていた。毒蛾の死骸から採取した討伐証明はリタの袋の中。ガイは盾を背負い直し、セラは少し誇らしげに剣の柄を撫でている。
「初依頼、成功ですよね」
セラが何度目かの確認をした。
「成功だ」
ガイが答える。
「毒蛾も倒した。証明も取った。全員歩けてる」
「全員歩けてるって大事ですね」
「大事だ」
ガイは真面目に頷いた。
そのやり取りに、ミナは少しだけ笑った。
全員歩けている。
それは本当に大事だ。討伐数より、報酬より、まずそこだと思う。以前なら、そう思っても言えなかった。
今も言えるわけではない。
けれど、ガイが当たり前のように言ってくれるだけで、胸の奥が少し柔らかくなる。
リタが先頭で枝を避けながら歩く。
「浮かれるのは街に戻ってからね。毒蛾は巣から離れたところに隠れてることもあるから」
「はい!」
「返事だけ元気」
セラが頬を膨らませた。
ミナは周囲の空気を読む。
毒粉の濃い気配はない。林の中は湿っていて、風も弱い。普通なら安全だ。
普通なら。
右手の茂みが、かすかに揺れた。
リタが短剣に手をかけるより早く、ミナの目がそこへ向いた。
白い羽。
小さいが、腹部が膨らんでいる。
毒針持ち。
「セラさん、止まって!」
ミナの声が飛ぶ。
セラは反応した。けれど、足が半歩前に出ていた。勝利の後で気が緩んでいたのだろう。剣に手を伸ばした姿勢のまま、毒蛾と向き合う形になる。
毒蛾が跳ねた。
ガイの盾が間に合わない。
リタの短剣も届かない。
ミナは支援を伸ばした。セラの足を引く。反応を補助する。肩の力を抜かせる。
でも、間に合わなかった。
毒針が、セラの左腕に刺さった。
「っ!」
セラが息を詰める。
ガイの盾が毒蛾を弾き飛ばし、リタの短剣が羽を裂いた。毒蛾は地面に落ち、すぐに動かなくなる。
けれど、ミナの目はセラの腕から離れなかった。
針の周囲が、すでに青黒く変わり始めている。
毒が早い。
血流に乗る。
呼吸が乱れる。
指先が震える。
迷っている時間はない。
******
「座ってください。腕を心臓より低くしないで」
ミナの声は、自分でも驚くほど冷静だった。
セラは顔を青くしながら膝をつく。
「だ、大丈夫です。これくらい」
「大丈夫かどうかは私が見ます」
言葉が少し強かった。
セラは目を丸くしたが、逆らわなかった。
ミナは毒針の周囲に手を当てる。皮膚の下で毒が広がっていく。速い。熱を持ち、血管を刺激し、腕から肩へ向かう。呼吸はまだ保っているが、このままでは喉にも反応が出る。
補助魔術としてごまかせる範囲ではない。
明らかに治癒だ。
しかも、かなり精密な治癒。
リタが近くにいる。ガイも見ている。セラ自身も意識がある。ここで使えば、もう「支援です」だけでは通らないかもしれない。
でも。
毒は待たない。
師匠の声が、頭の中で短く響く。
「迷っている間に毒は回る。言い訳は後でしろ」
ミナは深く息を吸った。
「解毒補助を入れます」
「補助?」
リタの声がした。
ミナは答えない。
治癒式を立ち上げる。毒を完全に消すのではない。血の流れを一時的に遅くし、広がった毒を腕の一部へ留める。神経の反応を落ち着かせ、呼吸へ影響が出ないよう喉と胸の緊張を抑える。
その上で、毒の性質に合わせて式を組み替える。
既存の解毒魔術では間に合わない。毒蛾の種類が微妙に違う。だから、師匠に叩き込まれた通り、相手の体に合わせて縫い直す。
魔法式は石板ではない。
相手の体に合わせて縫い直せ。
ミナの指先に汗が滲む。
セラの呼吸が浅くなる。
「セラさん、私を見て。息を吐いてください」
「は、い」
「吸うより先に、吐いて」
セラが震えながら息を吐く。
その呼吸に合わせ、ミナは毒の流れを押し戻した。
青黒い色が、少しだけ薄くなる。
ガイが息を呑んだ。
リタは黙っている。
ミナには、二人を見る余裕がなかった。
今はセラだけを見る。
痛み。毒。呼吸。脈。魔力循環。
全部を一つずつ拾い、必要な場所へ必要なだけ流す。
強すぎると体が反発する。
弱すぎると毒が勝つ。
細く、深く、急がずに。
数分が、ひどく長かった。
やがて、セラの肩から力が抜けた。
「息、できます」
ミナはそこで初めて、自分も息を止めていたことに気づいた。
「よかった」
声が震えた。
セラの腕にはまだ痕が残っている。完全に治したわけではない。毒の影響を抑え、危険な流れを止めただけだ。しばらく安静にすれば大丈夫。
それでも、命はつながった。
セラは涙目で自分の腕を見ていた。
「私、死ぬところでしたか」
ミナはすぐには答えなかった。
怖がらせたいわけではない。けれど、軽く流してはいけない。
「あのまま走ったり、強く息を吸ったりしていたら危なかったです」
「私、また前に出すぎました」
「はい」
ミナは正直に頷いた。
セラの顔が少し曇る。
けれど、ミナは続けた。
「でも、止まろうとはしてくれました。次は、もっと早く止まれます」
「次」
「次がある方がいいです。反省できるので」
その言葉に、ガイが小さく頷いた。
「生きてるなら反省できる」
セラは唇を噛み、それから深く頭を下げた。
「次は、ちゃんと聞きます」
ミナは包帯の端を結ぶ。
「お願いします。私も、もっと早く言います」
******
「今の、何?」
リタの声は軽くなかった。
ミナはセラの包帯を巻きながら、指を止めた。
「解毒補助です」
「補助にしては、ずいぶん体の中まで見てた」
「毒の流れを」
「そういうの、普通の補助魔術師がやる?」
ミナは答えられない。
ガイが間に入るように言った。
「今は戻るのが先だ。セラを歩かせるわけにはいかない」
「それは賛成」
リタはあっさり引いた。
でも、疑いを捨てたわけではない。
ガイはセラの前にしゃがむ。
「背負う」
「歩けます」
「歩かせない」
短いやり取りの後、セラは素直に背負われた。
ミナはほっとしながらも、包帯に残った光を見つめる。
治癒の痕跡が残っている。
高度な治療をした後の、細い魔力の縫い目。普通の冒険者にはわからないかもしれない。でも、ギルドの試験官や本物の魔術師が見れば、気づく可能性がある。
ミナは包帯の上からそっと手を当てた。
隠せるものではない。
命を救えば、跡が残る。
それは当然のことなのに、今は少し怖かった。
帰り道、セラはガイの背中で何度も謝った。
「すみません。私、前に出すぎました」
「生きてるなら反省できる」
ガイが答える。
リタが前を見ながら言う。
「次からは、ミナちゃんの『止まって』は止まること」
「はい」
セラは小さく頷いた。
ミナはその後ろを歩きながら、胸の奥が重くなるのを感じていた。
助けた。
それは後悔していない。
でも、また一歩、本当の名前に近い力を使ってしまった。
補助魔術師の木札が、鞄の中で静かに重い。
******
ギルドへ戻ると、依頼完了の手続きはすぐに始まった。
討伐証明。毒蛾の羽。依頼地の確認。負傷者の有無。
受付職員がセラの腕を見る。
「毒針ですか」
「はい。でも処置済みです」
ミナが答える。
職員は包帯に触れ、少しだけ眉を動かした。
「処置はどなたが?」
ミナは息を止める。
ガイが言った。
「ミナだ」
隠すつもりはない声だった。
リタも続ける。
「毒の回りを止めてくれた。おかげでセラは歩ける」
「歩いてないです。背負われました」
セラが小さく訂正する。
緊張した空気が少しだけゆるむ。
しかし、受付職員の目は書類へ戻っていた。
「補助魔術師としての異常対応、ですね」
「はい」
ミナは答えた。
職員は記録にペンを走らせる。
その手が、途中で止まった。
「念のため、試験官へ確認します」
ミナの喉が渇く。
奥から、昨日の試験官が呼ばれてきた。彼はセラの包帯と、そこに残った薄い魔力の流れを見る。
ほんの一瞬。
本当に一瞬だけ、目が細くなった。
「依頼は成功です。期限付き仮登録の条件は満たしました」
ミナは胸を撫で下ろしかける。
「ただし」
その言葉に、体が固まる。
「職業確認については、保留記録を残します」
試験官は書類の端に小さな印をつけた。
『職業確認保留。』
黒いインクが乾くまで、ミナはそこから目を離せなかった。
依頼は成功した。
セラは助かった。
ミナは必要とされた。
けれど紙の上に、嘘のほころびが初めて残った。
ミナはその印を見て、胸の奥で小さく息を吐いた。
隠したつもりでも、助ければ跡が残る。
なら、いつかはきっと聞かれる。
あなたは、本当は何者ですか。
その時、自分は答えられるのだろうか。
答えを用意できないまま、書類のインクだけが乾いていった。
乾いた黒は、思っていたより消えにくそうだった。
******
この話が良かった、参考になったと思ったらお好きな数だけつけてください!
また見たい!と思ったらブックマークもお願いします!




