第8話 ヒールじゃなくて支援です
小洞窟の奥でミナたちが毒蛾の巣を調べていた時、破れた繭から大きな毒蛾が落ちてきた。
羽を広げると、子ども一人を包めそうなほどある。白い粉が一気に舞い、洞窟の空気が濁った。
「下がって!」
ミナの声と同時に、ガイが盾を構えた。
毒蛾が突っ込む。
重い衝撃音。盾の表面に羽が叩きつけられ、粉が爆ぜるように広がった。
ガイの呼吸が止まる。
一瞬。
本当に一瞬だった。
でもミナには、その一瞬がはっきり見えた。喉が反応して狭くなる。肺に入った粉を体が拒み、胸が固くなる。次に大きく息を吸えば、さらに粉が入る。
「息を浅く! 吸い込まないでください!」
ミナは叫んだ。
ガイが歯を食いしばる。
セラが横から斬り込もうとする。
「待って!」
「でも!」
セラは止まらない。
若い足が前へ出る。床の粉が舞う。毒蛾の羽がその動きに反応して、細い針のような脚を振り上げた。
踏み込みすぎる。
腱が伸びる。
毒針が届く。
ミナは杖を握りしめた。
攻撃はできない。
だったら、倒れる前に止める。
セラの足首へ支援を入れる。反応を速くするのではない。逆だ。勢いをほんの少しだけ鈍らせ、踏み込みの角度を外す。
セラの足がわずかに止まった。
毒蛾の脚が空を切る。
「今、動きが鈍った!」
セラが振り返る。
「そのまま踏み込んだら、腱が切れます」
「腱!?」
「下がってください!」
ミナの声が強くなった。
自分でも驚くくらい、迷いがなかった。
セラは目を丸くしたが、今度は下がった。
ガイが盾で毒蛾を押し返す。けれど呼吸が荒い。肩が上下している。粉を吸っている。
まずい。
ヒールを使えば早い。
喉の腫れを抑え、肺に入った刺激を緩め、呼吸の乱れを整える。治癒式ならできる。ミナの得意分野だ。
でも、ここでそのまま使えば。
ヒーラーだと、ばれる。
リタの視線がある。セラの視線もある。ガイはそれどころではないが、後で気づくかもしれない。
迷っている間に、ガイの息が詰まった。
ミナの中で、師匠の声が鳴る。
「救った命に説明書をつける暇はない」
そうだ。
言い訳は後でいい。
「呼吸補助を入れます!」
ミナはそう叫んだ。
ヒールとは言わない。
呼吸補助。
嘘ではない。嘘ではないはずだ。呼吸を補助するのだから。
ミナはガイの背中へ魔力を伸ばした。
治癒式を土台にする。喉の反応を抑える。肺の奥に入った毒粉の刺激を薄く包む。胸郭の動きに合わせ、呼吸筋へ小さな支援を混ぜる。
強すぎると、粉を深く吸う。
弱すぎると、息が戻らない。
浅く、細く、今必要な分だけ。
ガイの肩が一度、大きく揺れた。
「っ、息が」
「深く吸わないで。短く、ゆっくり」
ガイが従う。
呼吸が戻る。
盾が落ちない。
ミナは汗が頬を伝うのを感じた。
まだ終わっていない。
ガイの呼吸が戻ったことで、前線は保った。
けれど、ミナの魔力は一気に削られていた。普通の傷を塞ぐより、呼吸を保ちながら毒の刺激を抑える方が細かい。しかも、支援に見えるように光を絞っている。布の下で針に糸を通すようなものだ。
手が震えそうになる。
ミナは自分の手首にも、ほんの少しだけ支援を入れた。
ずるい、と一瞬思った。
でも、手が震えれば誰かが倒れる。
自分を支えるのも、今は仕事だ。
「ミナ?」
リタが気づいた。
「大丈夫です」
「大丈夫って顔じゃないけど」
「大丈夫にします」
言った瞬間、自分の声が少し強くなった。
リタは目を瞬かせ、それから笑った。
「了解。じゃあ、大丈夫にして」
軽い言い方だった。
でも、その軽さに救われた。
******
「リタさん、左の壁に粉が薄い場所があります。そこへ誘導してください」
「了解」
リタは迷わなかった。
小瓶を投げる。中の臭い液体が岩に当たって割れ、毒蛾が一瞬そちらを向いた。
「セラさん、次は羽の付け根。深追いしないで」
「はい!」
セラの返事は、さっきより素直だった。
ミナは彼女にも支援を入れる。今度は鈍らせない。膝と足首の負担を逃がし、剣を振る瞬間だけ肩の余計な力を抜く。
セラが前へ出る。
剣が羽の付け根を裂いた。
毒蛾が大きく暴れる。
粉が舞う。
ガイが盾を立てる。
「俺が受ける!」
「受けすぎないでください。右腕、痺れが出ています」
「見えてるのか」
「支援です」
ミナはもう、説明が雑になっている自覚があった。
でも今は、誰も倒れさせないことが先だ。
ガイの右腕に痛覚緩和を少しだけ入れる。消しすぎない。痛みは危険信号だ。けれど、今は盾を落とさない程度に抑える必要がある。
リタが毒蛾の背後へ回る。
「針、右に来る!」
彼女の声に合わせ、ミナはセラの反応を少しだけ支える。
セラが避ける。
毒針が岩を削る。
「今!」
ガイの盾が毒蛾を押し込む。
セラの剣がもう一度走る。
リタの短剣が羽の裂け目に入る。
毒蛾が崩れた。
羽が床を叩き、粉が最後にふわりと舞う。
「口元を押さえて。全員、後ろへ」
ミナはすぐに指示した。
勝った余韻に浸る暇はない。倒した直後の粉が一番危ない。死骸を揺らせば、残った毒粉が舞う。
ガイが盾を下げずに後退する。リタがセラの襟を引いた。
「ほら、勝って喜ぶのは外」
「わ、わかってます」
セラはまだ興奮しているが、従った。
ミナは最後に広間を見た。
毒粉の濃い場所。倒れた毒蛾。破れた繭。まだ動く小さな蛾がいないか確認する。
大丈夫。
今度こそ、終わった。
そう思った途端、膝から力が抜けそうになった。
リタが横から支える。
「おっと」
「すみません」
「魔力切れ?」
「少しだけ」
「ふうん」
リタの目が、また細くなる。
「補助魔術って、そんなに対象者の呼吸とか腱とか見るもの?」
ミナは答えを探した。
支援です。
異常対応です。
呼吸補助です。
どれも、もう言った。
言えば言うほど薄くなる。
「……必要なので」
結局、それだけ言った。
リタはしばらく見ていたが、やがて肩をすくめる。
「ま、助かったのは本当だしね」
その言葉に、ミナは小さく頭を下げた。
助かった。
今日も、そこだけは本当だった。
******
洞窟の外に出ると、曇り空がやけに明るく見えた。
全員、まず水で口をゆすぐ。布を外し、粉を払う。ミナは一人ずつ呼吸を確認した。
ガイはまだ胸に違和感があるが、危険な腫れはない。セラは足首に軽い負担。リタは粉をほとんど吸っていない。さすが斥候だ。
「ガイさん、今日は深酒しないでください。肺がまだ刺激を受けています」
「わかった」
「セラさん、足首を冷やしてください。痛くなくてもです」
「痛くないです」
「痛くなる前にです」
セラは少し唇を尖らせたが、素直に頷いた。
「リタさんは」
「あたしは?」
「特にありません。でも布を洗う時は素手で触らないでください」
「はいはい」
リタは軽く返事をした。
ガイが盾を地面に置き、右手を握ったり開いたりする。
その動きに、ミナはすぐ気づいた。
「痺れますか?」
「いや」
ガイは不思議そうに手を見た。
「変だな。傷を治されたわけじゃないのに、まだ立てる」
ミナの心臓が跳ねる。
治された。
その言葉は、少し危ない。
「支援です」
「そうか」
ガイは深く考えていないようだった。
けれど、リタは横で笑っている。
「ヒールじゃなくて支援です、って顔してる」
「実際、支援なので」
「便利だねえ」
ミナは視線を落とした。
嘘ではない。
でも、全部ではない。
その半端さが、毒粉より細かく胸の奥に残っていく。
セラが剣を鞘に収めた。
「でも、ミナさんの支援、すごく動きやすかったです」
その声は素直だった。
ミナは顔を上げる。
「そう、ですか」
「はい。ちょっと止められた時は驚きましたけど、あのまま行ってたら本当に足を痛めてた気がします」
認められた。
たぶん、小さなことだ。けれどミナには、思っていたより大きかった。
ガイも頷く。
「次も、その調子で頼む」
次。
その言葉が、ミナの中で静かに広がる。
今回だけの仮パーティではなかったのかもしれない。
そう思った瞬間、嬉しさより先に怖さが来た。
次も頼まれる。
頼まれるほど、嘘を言い出しにくくなる。
ミナは木札を握った。
補助魔術師、ミナ・リース。
その名前で、また一歩進んでしまった。
森へ戻る風が、洞窟の入口から白い粉を少しだけ運んできた。
ミナは無意識に、三人が風下に立っていないか確認する。
確認してから、自分で苦笑した。
これはもう癖だ。
誰かが倒れる前に、足場を見る。
誰かが痛がる前に、負担を見る。
誰かが気づく前に、危険を見る。
その癖を捨てるつもりはない。
ただ、その名前を、今はまだ言えないだけだった。
言えないままでも、次の危険は待ってくれない。
だからミナは、黙ったまま次に備えた。
胸の奥に残った痛みごと、前を向くしかなかった。
今は。
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