第7話 毒の匂いが見える
翌朝、ミナたち四人は街道から少し外れた林の奥で、小洞窟の前に立っていた。
入口は二つ。大きな岩の裂け目が左右に分かれ、そのどちらも人が屈めば入れるくらいの幅がある。周囲には白っぽい粉が薄く積もっていて、木の根元には乾いた抜け殻が引っかかっていた。
ミナは足を止めた。
空気が、重い。
匂いとして強いわけではない。毒蛾の粉は、花のように甘く香るものもあれば、ほとんど匂いのないものもある。今回の粉は後者に近い。鼻ではわかりにくい。
けれど、ミナには見えた。
洞窟の右側の入口から、細かい粉がゆっくり流れ出ている。粉そのものが見えるのではない。体に入れば喉を荒らし、肺を締め、血の巡りを乱すもの。その気配が、薄い霧のように広がっている。
ヒーラーとして毒の侵入経路を読む感覚。
補助魔術師の索敵とは、たぶん違う。
でも今は、それを言えない。
「右側の入口は避けてください」
ミナは静かに言った。
ガイが盾を下ろしかける。
「理由は」
「空気が、重いです」
言ってから、自分でも説明が足りないと思った。
リタがすっと前に出る。
「空気が重い、ね」
彼女は布で口元を覆い、右側の入口に近づいた。指先で地面の粉をすくい、光にかざす。それから岩陰を覗き込んだ。
「抜け殻が多い。粉も溜まってる。風の流れがこっちに抜けてるね」
ガイが頷く。
「左から入るか」
「待ってください」
ミナは左側の入口も見た。
右ほどではないが、奥で粉が動いている。風が弱い。入り口付近は安全でも、少し進めば溜まり場があるかもしれない。
「左も、奥で粉が溜まっています。入ってすぐに布を濡らしてください。乾いたままだと吸いやすいです」
セラが目を丸くした。
「索敵魔術ですか?」
ミナは一瞬だけ迷う。
「異常感知の、補助です」
また、その言葉。
便利な布を一枚重ねるみたいに、ミナは本当の名前を隠した。
リタがこちらを見ている。
「ふうん。魔力じゃなくて、毒の方を見るんだ」
「毒の方、というか」
「まあ、助かるからいいけど」
リタは軽く肩をすくめた。
助かる。
その言葉に、ミナは少しだけ救われた。疑われているのはわかる。それでも、今は危険を避ける方を優先してくれている。
ガイが先頭に立った。
「行くぞ。ミナ、後ろから指示をくれ」
「はい」
ミナは杖を握った。
洞窟の暗がりは、冷たい口を開けていた。
******
中は狭かった。
ガイが盾を横にできないほどではないが、剣を大きく振るには窮屈だ。壁には薄く白い粉が付着し、天井からは毒蛾の繭がいくつも垂れている。
セラが小声で言った。
「思ったより気持ち悪いです」
「思った通り気持ち悪いよ」
リタが返す。
ガイは黙って進む。
ミナは後方で、四人分の呼吸を聞いていた。
ガイは深く、少し重い。盾を持つため肩に力が入りやすい。リタは浅く短いが、無駄がない。セラは速い。緊張とやる気で、呼吸が前のめりになっている。
粉は奥からゆっくり漂ってくる。
洞窟の右壁に沿って濃い。床のくぼみに溜まり、踏むと舞う。何も知らずに歩けば、確実に吸い込む。
「次の曲がり角、右の壁に近づかないでください。床のくぼみも避けて」
ミナが言うと、リタがすぐに屈んだ。
「本当だ。粉が溜まってる」
セラが足を引っ込める。
「踏むところでした」
「踏む前でよかったです」
ミナは小さく息を吐く。
踏む前。
壊れる前。
間に合うと、胸の奥が少しだけ軽くなる。
洞窟の奥で、羽音がした。
まだ遠い。薄い紙を擦るような音。毒蛾の群れが、繭の近くで動いている。
ガイが盾を構えた。
「数は」
リタが目を細める。
「多分、六か七。小さいのが多い」
ミナには、数より先に毒粉の流れが見えた。
奥の広間に粉が溜まっている。中央は濃い。左奥はまだ薄い。右の壁際は危険。もし戦うなら、入口側に引きつけて、粉の濃い場所へ踏み込まない方がいい。
「広間の中央に入らないでください」
「見えてるの?」
リタが聞く。
「見えている、というか」
「便利だね、その異常感知」
軽口の形をしているが、目は鋭い。
ミナは答えず、セラの足元を見た。
「セラさん、左足を少し外に。踏み込む時に滑ります」
「え、はい」
セラが慌てて足を直す。
その直後、床の薄い粉の下に隠れていた小石がころりと動いた。
「本当だ」
セラが驚く。
ガイが低く言う。
「助かる」
その短い一言で、ミナの胸が温かくなる。
助かる。
役立たずではない。
今は、まだそう思っていいのかもしれない。
その直後、天井から白い粉がひと筋落ちた。
ミナは反射的に手を上げる。
「止まって」
全員が止まった。
粉はガイの盾の前を通り、床の上でふわりと散る。もし半歩進んでいれば、ちょうどセラの顔に落ちていた。
セラが目を見開く。
「今のも見えてたんですか」
「落ちる前の揺れが」
ミナは天井を見上げる。
繭がいくつか裂けかけている。羽化した毒蛾が動いたせいで、古い粉が剥がれ落ちているのだ。
リタが短剣の柄で壁を軽く叩いた。
別の場所からも粉が落ちる。
「罠ってほどじゃないけど、嫌な地形だね」
「急いで通ると危ないです」
ミナは四人分の立ち位置を確認した。
「ガイさん、盾を少し斜めに。上から落ちる粉を受けるなら、前に弾くより横に逃がしてください」
「こうか」
「はい。セラさんはガイさんの真後ろに立たないでください。盾で逃がした粉を吸います」
「わ、わかりました」
「リタさんは」
「あたしは自分で避ける」
「左肩に少し付いています」
リタが自分の肩を見る。
本当に白い粉がついていた。
「……ありがと」
珍しく、彼女の返事は短かった。
ミナは首を振る。
「まだ奥に行く前です。ここで吸うのはもったいないです」
「毒を吸うのにもったいないって言う人、初めて見た」
セラが小さく笑った。
緊張が少し和らぐ。
ミナはその一瞬をありがたく感じながらも、杖を握り直した。
笑えるうちに、危険を減らす。
その方が、ずっといい。
******
広間の入口で、リタが手を上げた。
全員が止まる。
天井近くに、毒蛾が張りついていた。白い羽に灰色の斑点。小さいものは手のひらほど、大きいものは人の顔くらいある。羽が震えるたび、細かな粉が落ちる。
セラが剣を抜いた。
目が輝いている。
実績が欲しい、と言っていた顔だ。
ミナはその足首を見た。
前に出る気だ。
「セラさん、合図まで待ってください」
「わかってます」
返事は早い。
でも、体は前に行きたがっている。
ミナは軽い支援を準備した。反応を速めるのではない。むしろ、踏み込みの瞬間に足首へ余計な力が入らないよう、筋の緊張を整える。セラが飛び出しすぎないように。
ガイが盾を前に出す。
「リタ、誘導」
「了解」
リタが小石を投げた。
乾いた音が広間の左側で跳ねる。毒蛾の数匹が羽を広げた。粉が落ち、白い霧のように舞う。
「今です。入口側へ」
ミナの声に合わせて、リタがもう一つ小石を投げる。毒蛾が動く。ガイが盾を打ち鳴らす。低い音に反応して、群れの一部がこちらへ向かった。
戦闘になる。
ミナは杖を構えた。
攻撃はできない。
でも、見える。
どこで毒が濃くなるか。誰の呼吸が乱れるか。どの足が危ないか。どの痛みなら残して、どの痛みなら抑えるべきか。
毒蛾の群れが迫る。
「ガイさん、少し右へ。セラさん、まだ」
「まだですか!?」
「まだです」
セラが唇を噛む。
リタが横目で笑った。
「ちゃんと止められてるじゃん」
ミナは答えない。
次の瞬間、毒蛾の一匹が低く飛んだ。
「今です」
セラが飛び出す。
ミナは支援を流した。
速くするのではなく、無駄を削る。足首を守り、呼吸を整え、剣を振る瞬間だけ肩の力を抜く。
セラの剣が毒蛾を斬った。
「当たった!」
「下がってください」
「はい!」
セラは素直に下がった。
その足取りに、ミナは小さく頷く。
大丈夫。
今のところ、誰も毒を深く吸っていない。
けれど、奥の繭が一つ、ゆっくり揺れた。
中に大きいものがいる。
ミナの背中に緊張が走る。
リタがそれに気づいたように、ちらりとミナを見た。
「ねえ、補助魔術師さん」
「はい」
「あなた、魔力じゃなくて、体に悪いものを見てない?」
毒蛾の羽音が大きくなる。
ミナは答えられなかった。
答えれば、たぶん楽になる。
本当は魔力ではなく毒の流れを見ています。治癒師として、体に入った後の危険を先に読んでいます。
そう言えば、リタは納得するかもしれない。
けれど、納得の先に何があるのかわからなかった。
補助魔術師ではないと知られたら、この依頼はどうなるのか。
ガイはどう見るのか。
セラは、さっきの支援をどう思うのか。
考える時間はなかった。
奥の繭が、内側から押されるように膨らむ。
答える前に、奥の繭が破れた。
白い羽が、暗がりの中でゆっくり開いた。
空気の重さが、一段濃くなる。
ミナは杖を握り直し、次の一呼吸に意識を絞った。
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