第51話 うそを捨てる日
翌日の午後、ミナはルシェルのギルド広間に立っていた。
南門の毒霧は、まだ完全に消えたわけではない。
けれど、救護要請の鐘は鳴っていなかった。
広間にはいつもより人が多い。冒険者、神殿職員、南門で救護を受けた街の人。全員がミナを見ているわけではない。けれど、見ていないふりをしながら見ている人は、かなりいる。
ミナは逃げたくなった。
ほんの少し。
いや、かなり。
でも、横にガイさんがいる。
リタさんがいる。
セラさんがいる。
少し離れて、ノエルさんとラウラさん、セヴラン司祭もいる。
机の上には、新しい木札が置かれていた。
ラウラさんが読み上げる。
「ミナ・リース。職業、ヒーラー。備考、戦場治癒支援、仮運用」
ヒーラー。
その言葉が、広間に響いた。
補助魔術師ではない。
魔術師でもない。
ヒーラー。
ミナは木札を受け取った。
手の中の重さは、前の木札とほとんど同じだ。
同じ木。
同じ大きさ。
同じように、名前が刻まれている。
でも、重さの意味が違った。
嘘を守るための重さではない。
自分で名乗るための重さだ。
目の奥が熱くなる。
泣きそうになる。
でも、泣き崩れなかった。
ここは終わりではない。
始まりだ。
******
広間の端で、誰かが小さく言った。
「変な補助魔術師じゃなくなったのか」
別の冒険者が返す。
「じゃあ、変なヒーラー?」
「あいつがいると死ににくいのは変わらないだろ」
変なヒーラー。
ミナは複雑な顔になった。
リタさんが肩を震わせている。
「笑ってますね」
「笑ってない」
「絶対に笑っています」
「変なヒーラー、昇格おめでとう」
「やっぱり笑っています」
ミナが小さく言うと、リタさんはにやりとした。
「役立たずよりは、だいぶいいでしょ」
その言葉に、胸の奥が少しだけ痛んで、少しだけ温かくなった。
役立たず。
追放された日に投げつけられた言葉。
それは、完全には消えない。
でも今は、その上に別の言葉が乗っている。
ヒーラー。
変なヒーラー。
死ににくい。
どれも完璧な褒め言葉ではない。
でも、ミナがここに立っている証拠だった。
セラさんが口を開きかけた。
「変な、というのは」
訂正しようとして、止まる。
少し考えてから、セラさんは真面目に頷いた。
「……悪くないかもしれません」
「セラさんまで」
「死ににくいのは大事です」
「それは、はい」
ガイさんが短く言う。
「行くぞ、ヒーラー」
その呼び方に、ミナは息を止めた。
ガイさんはいつも通りだ。
特別に優しい声ではない。
だからこそ、胸に来た。
「はい」
ミナは頷いた。
今度は、ちゃんと返事ができた。
******
新しい依頼書は、すぐに来た。
早すぎる。
そう思ったが、冒険者ギルドとはそういう場所だった。昨日街を救っても、今日には次の問題が掲示板に貼られる。
ラウラさんが少し申し訳なさそうに資料を出す。
「急ぎではありません。ただ、確認だけ先に」
「急ぎではない依頼書の顔をしていません」
リタさんが言う。
「顔」
セラさんが依頼書を見つめる。
「たしかに、少し急ぎそうな顔です」
「セラさんまで依頼書の顔を読むように」
ミナが困っていると、ノエルさんが資料を覗き込んだ。
表情が変わる。
ほんの少し。
でも、ミナにはわかった。
「崩壊遺跡の封鎖後調査ですか」
ノエルさんが言う。
ラウラさんは頷いた。
「毒霧の原因となった排水路は仮封鎖しました。ただ、遺跡内部に未解明の魔法式がある可能性があります。神殿と魔術師組合の合同調査になる予定です」
合同調査。
嫌な言葉ではない。
でも、重い。
ノエルさんは報告書の端に描かれた紋様を指でなぞった。
「この紋様」
声が低い。
「エレナの魔力循環異常に似ています」
ミナの指が、新しい木札の上で止まった。
エレナさん。
魔力の逆流。
神殿でも魔術師組合でも届かなかった症状。
崩壊遺跡。
毒泡袋。
古い排水路。
全部が、また一本の線につながりかけている。
嘘を捨てたら、終わりではなかった。
本当の名前で立ったからこそ、見える問題がある。
ミナは木札を握った。
ヒーラー、ミナ・リース。
もう隠れるためではない。
前に進むために。
******
その夜、ミナは宿の部屋で、古い木札を机の上に置いた。
補助魔術師、ミナ・リース。
隣には新しい木札。
ヒーラー、ミナ・リース。
どちらも、ミナの道に必要だった。
嘘の木札がなければ、ミナはルシェルで仕事を得られなかったかもしれない。
新しい仲間にも会えなかったかもしれない。
でも、嘘のままでは守れないものがあった。
セラさんの信頼。
リタさんの待ってくれた時間。
ガイさんの判断。
救った人たちの記録。
自分自身の名前。
ミナは古い木札を布で包んだ。
捨てるわけではない。
なかったことにはできない。
でも、もう握って歩くものではない。
新しい木札を手に取る。
指先で、ヒーラーの文字をなぞる。
私は、魔術師ではない。
補助魔術師でもない。
私は、ヒーラーだ。
嘘で始まった道を、今度は本当の名前で歩く。
窓の外では、夜のルシェルが静かに灯っていた。
明日になれば、また誰かが助けを求める。
その時、ミナは手を伸ばす。
ヒーラーとして。
******
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