エピローグ 聖女の名前
数百年後のルシェルで、雨の夜、ひとりの子どもが寝台の中から母を見上げていた。
窓の外では、古い石畳を雨が濡らしている。ギルドの鐘はもう鳴らない時間で、街は静かだった。
母は灯りを少し落とし、薄い本を閉じた。表紙には、銀の糸でひとりの女性の横顔が縫い取られている。
「お母さん」
「なあに」
「聖女ミナさまって、本当にいたの?」
母は小さく笑った。
「いたわ」
「本に出てくる人は、だいたい強すぎるから、ほんとうかなって」
「強すぎる人に見えるわよね」
母は本の表紙を撫でた。
そこに描かれている女性は、静かな目をしていた。手には杖。胸には小さな木札。背後には盾と短剣と剣を持つ仲間たちの影がある。
「でもね、ミナさまは最初から聖女だったわけじゃないの」
「違うの?」
「ええ。最初は、パーティを追い出されたヒーラーだったそうよ」
子どもは目を丸くした。
「ヒーラーなのに?」
「ヒーラーだから、かもしれないわね。昔は、治す人の仕事が今よりずっと軽く見られていたの。傷ついたあとに治せばいい。倒れたあとに呼べばいい。そう思う人が多かった」
「でも、倒れたら痛いよ」
「そうね。ミナさまも、そう思ったの」
母はページを開いた。古い挿絵には、若いミナが困った顔で木札を握っている。そこに書かれている職業は、聖女ではない。
「ミナさまは一度、魔術師だとうそをついたの」
「うそ?」
子どもは布団から少し顔を出した。
「聖女なのに?」
「聖女と呼ばれる前の話よ。怖くて、居場所がなくて、ヒーラーだと名乗れなかった。だから補助魔術師だと言って、冒険者ギルドに立った」
「悪い人だったの?」
「いいえ」
母は首を振った。
「弱いところのある人だったの。でも、誰かが倒れそうになると、手を伸ばさずにいられない人だった」
雨音が少し強くなる。
子どもは本の中のミナをじっと見た。
「じゃあ、どうして聖女になったの?」
「うそをついたからではないわ。うそを捨てて、自分の名前で人を助け続けたから」
母の声は静かだった。
「毒の沼でも、崩れた遺跡でも、南門の毒霧でも、魔力病の病室でも。ミナさまはいつも、倒れてからでは遅いと言った。治すだけでは足りない。支えるだけでも終われない。倒れる前に見つけて、戦う人も、逃げる人も、救う人も、生きて帰れるようにする。それがヒーラーの仕事だと、世界に教えたの」
「すごい」
「ええ。とてもすごい人」
母は微笑んだ。
「でもね、私はそこより、最初の一歩の方が好き」
「最初の一歩?」
「まだ誰も、彼女を聖女なんて呼んでいなかった日。変なヒーラーと笑われて、それでも仲間たちと一緒にギルドを出ていった日」
子どもは眠そうに瞬きをした。
「その日から、聖女になったの?」
「いいえ」
母は灯りをさらに小さくした。
「その日から、ヒーラーになったのよ」
雨が、石畳をやさしく叩く。
子どもは布団の中で丸くなりながら、もう一度だけ聞いた。
「ミナさま、怖くなかった?」
母は少し考えて、答えた。
「きっと、怖かったわ」
「それでも行ったの?」
「ええ。隣に、仲間がいたから」
その答えを聞くころには、子どものまぶたは半分閉じていた。
母は本を閉じる。
表紙の銀糸が、灯りの中で淡く光った。
聖女ミナ。
その名前は、数百年を越えて残った。
けれど、その日、ルシェルのギルドにいたミナ・リースは、自分がそんな名前で呼ばれる未来など、少しも知らなかった。
******
朝のルシェルのギルド広間で、ミナは新しい木札を何度も見下ろしていた。
昨日、補助魔術師の木札を布で包んだ。今日、ミナの胸元にはヒーラーの木札がある。
刻まれた文字は、まだ少しだけ落ち着かない。
ヒーラー、ミナ・リース。
見慣れた名前なのに、知らない人の札みたいだった。
「ミナちゃん、木札に穴が開くよ」
リタさんが横から覗き込む。
「穴は開けません」
「その勢いならいける」
「いけません」
ミナは慌てて木札から目を離した。
ギルド広間は、いつもの朝より少しだけざわついている。南門の毒霧騒ぎがあったばかりだ。冒険者たちは掲示板を見るふりをしながら、こちらをちらちら見ていた。
見られている。
ものすごく見られている。
ミナは肩を縮めた。
「やっぱり、今日は裏口から出た方が」
「出ない」
ガイさんの返事は早かった。
「でも」
「正面から出る」
「正面は、人が」
「人がいるからだ」
ガイさんはいつものように短い。
でも、その短さの中に、逃げるなと言う硬さはなかった。隠れなくていい、という確認に近い。
ミナは小さく息を吸った。
「はい」
「返事が小さい」
「はい」
「まだ小さい」
「ガイさん、訓練ではないです」
セラさんが真面目に割って入る。
「でも、声を出すのは大事です。新しいヒーラーとしての初日ですから」
「セラさんまで」
「私も緊張しています」
「なぜですか」
「ミナさんの初日なので」
理由になっているようで、なっていない。
けれど、セラさんは本気だった。剣帯を整え、背筋を伸ばし、まるで自分が新しい登録を受けたみたいな顔をしている。
ミナの胸の奥が、少しだけ温かくなった。
昨日までの痛みが消えたわけではない。
嘘をついた事実も、誰かを傷つけた時間も、なかったことにはならない。
でも、それだけでは終わらなかった。
ガイさんが隣に立っている。
リタさんが軽口を言っている。
セラさんが、なぜかミナより緊張している。
それは、ミナがここに残したものだった。
嘘ではないものだった。
******
ラウラさんが受付机から一枚の依頼書を持ってきた。
「ミナさん。こちら、確認をお願いします」
「はい」
ミナは受け取り、文字を追う。
街道脇の小集落。
荷馬車の横転。
負傷者数名。
毒や魔物の気配は薄いが、足を痛めた者と、発熱した子どもがいる。
急ぎすぎるほどではない。
けれど、遅くていい依頼でもない。
ミナの指が、依頼書の端をそっと押さえた。
以前なら、こういう依頼は「ヒーラーを呼べ」で終わっていたかもしれない。あるいは、怪我人が街まで運ばれてから、神殿の順番を待つことになったかもしれない。
でも、今は違う。
冒険者ギルドから、ヒーラーが出る。
戦うためではなく。
倒れる前に、ひどくなる前に、手を伸ばすために。
「受けます」
口にした声は、思ったよりまっすぐ出た。
ラウラさんが一瞬だけ目を細める。
「ありがとうございます。同行者は」
「俺だ」
ガイさんが言う。
「あたしも」
リタさんが手を上げる。
「私も行きます!」
セラさんの声だけ少し大きい。
周囲の冒険者が何人かこちらを見る。
ミナはまた肩を縮めた。
「セラさん、声が」
「すみません。でも、初日なので」
「だから、なぜ私より張り切って」
「張り切っていません。普通です」
「その普通は少し前のめりです」
リタさんが笑う。
「いいじゃん。前のめり剣士と、壁みたいな盾役と、疑り深い斥候と、変なヒーラー。ちょうどいい」
「最後だけ直してもらえますか」
「戦術ヒーラー?」
「急に正式っぽくしないでください」
「じゃあ、死ににくくする係」
「それは……少し近いです」
言ってから、ミナは自分で困った。
近い。
本当に、近い。
誰かを死ににくくする。
怪我をなくすことはできない。病を全部消すこともできない。怖い依頼を安全な散歩に変えることもできない。
でも、死ににくくすることはできる。
倒れそうな一歩を見つけることはできる。
息が止まる前に、手を伸ばすことはできる。
ミナは木札に触れた。
ヒーラー。
その名前は、まだ大きい。
ミナの手には、少し余る。
けれど、握れないほどではなかった。
******
出発の準備は早かった。
ガイさんは盾の留め具を確認し、リタさんは薬草袋と短剣の位置を直す。セラさんは剣を背負い、なぜかミナの鞄まで持とうとした。
「セラさん、鞄は自分で持てます」
「でも、初日なので」
「初日を万能の理由にしないでください」
「少しだけなら」
「だめです」
セラさんは残念そうに手を引っ込めた。
その様子を見て、ラウラさんが口元を押さえている。ノエルさんは少し離れた机で記録帳を閉じ、淡々とこちらへ歩いてきた。
「ミナさん」
「はい」
「今回の依頼は、治療記録を簡略化して構いません。ただし、発熱した子どもの症状については後で共有してください」
「わかりました」
「あと」
ノエルさんは、ほんの少しだけ間を置いた。
「無理をしないでください」
淡々とした声だった。
けれど、ミナは少し驚いた。
ノエルさんが言う「無理をしない」は、感情だけの言葉ではない。記録と観察と、昨日までの治療式の負荷を見た上での判断だ。
「はい。無理をしすぎる前に、止めてもらいます」
ミナが答えると、リタさんがすぐに指を立てた。
「担当、あたし」
「私もやります」
セラさんが続く。
ガイさんも短く言った。
「止める」
「三人がかり」
ミナは小さく呟いた。
「私、そんなに止まらなそうですか」
三人が黙った。
黙られると、それはそれで困る。
「そこは否定してほしかったです」
「内容による」
リタさんがいつもの調子で言う。
ミナは少しだけ笑った。
怖さはある。
これから、きっと失敗もする。判断を迷う日もある。救えない命にぶつかる日もある。ヒーラーと名乗ったからといって、急に何もかもできるようになるわけではない。
けれど、もうひとりで飲み込まなくていい。
嘘を握って、黙って、笑う必要はない。
できることを言う。
できないことも言う。
助けたいと、ちゃんと言う。
それが、今日からのミナの仕事だった。
******
ギルドの扉の前で、ミナは一度だけ振り返った。
受付机。
掲示板。
傷だらけの床。
初めて補助魔術師と名乗った場所。
嘘が始まった場所。
そして、ヒーラーとして立ち直った場所。
広間の片隅で、誰かが小さく手を上げた。
「行ってこいよ、変なヒーラー」
ミナは一瞬、返事に迷った。
変な。
やっぱり、そこは少し引っかかる。
でも、役立たずではない。
嘘つきだけでもない。
ここにいる人たちは、ミナが何をしたかを見ている。何を間違えたかも、どう立ち直ろうとしているかも。
だから、ミナは小さく息を吸った。
「行ってきます」
声は、今度はちゃんと届いた。
ガイさんが扉を押し開ける。
朝の光が差し込んだ。
リタさんが先に一歩出て、街道の方角を見る。
「天気よし。風も悪くない。ミナちゃん、今日は走り出し禁止ね」
「走りません」
「状況による?」
「……状況によります」
「正直でよろしい」
セラさんが笑った。
「ミナさん、行きましょう」
ガイさんが短く頷く。
「行くぞ、ヒーラー」
その呼び方に、ミナはもう逃げなかった。
胸元の木札が、朝の光を受けて少しだけ温かい。
いつか遠い未来で、自分の名前がどう語られるのか、ミナは知らない。
偉大なヒーラーになることも。
聖女と呼ばれる日が来ることも。
何も知らない。
今知っているのは、目の前に助けを待つ人がいること。
隣に、一緒に歩いてくれる仲間がいること。
そして、自分がもう本当の名前を隠さなくていいこと。
「はい」
ミナは顔を上げた。
「頑張ります。ヒーラーとして」
ギルドの扉が背中で閉まり、ミナは仲間たちと一緒に、朝の光の中へ歩き出した。
******
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