第44話 毒泡袋を破るな
南門の水路口で、ガイは低く身をかがめていた。
ミナは救護線から離れられない。
だから水路の中は、リタの報告と伝令の声で追うしかなかった。
「一人目、瓦礫から出せそう」
リタさんが水路口から顔を出し、短く言う。
「でも奥が悪い。袋がある。毒泡袋。触ったら破れるやつ」
ミナは頷く。
「ガイさんに、盾を壁へ強く当てないよう伝えてください。振動が袋に伝わります」
「伝えた。ガイ、今めちゃくちゃ静かに盾持ってる。あれ、見た目がちょっと面白い」
「笑っている場合ですか」
「笑ってないと息が詰まる場合もある」
リタさんはそう言って、また水路へ戻った。
わかる。
今は、笑いも道具だ。
緊張だけで動けば、手元が狂う。
ミナは救護線で咳き込む患者の背に手を当てた。
「深く吸わないで。短く、二回。そうです」
患者の呼吸が少し整う。
その間にも、耳は水路側を追っていた。
水の跳ねる音。
石を動かす音。
ガイさんの低い声。
セラさんの返事。
遠くで、誰かが叫んだ。
「火を持ってこい! 焼けば霧も消える!」
ミナの背筋が凍った。
「駄目です!」
声が出た。
水路口へ向かって、思ったより鋭く。
「火は駄目です。毒泡袋の膜が弾けます」
叫んだ冒険者が振り返る。手には小さな火種の魔石。隣には、イザークがいた。
イザークは杖を構えかけていた。
目が合う。
彼の顔に、いつもの皮肉が浮かびかける。
しかし、浮かびきらなかった。
黒苔廃坑。
火。
胞子。
自分の魔術で悪化させた記憶が、彼の中にも残っているのだろう。
イザークは唇を歪めた。
「……火は使わない」
それだけ言った。
謝罪ではない。
でも、今は十分だった。
「水路の中へ、火種を近づけないでください」
「わかっている」
わかっている、と言う声は硬かった。
でも、杖は下がった。
ミナは息を吐きかけて、すぐ次の患者へ向いた。
安心するのは後だ。
******
水路の中から、一人目の作業員が運び出された。
ガイさんが背負っている。肩で息をしているが、足取りは崩れていない。セラさんは後ろから支え、リタさんは二人の通った跡に黒い布で印をつけていた。
作業員は意識がある。
顔は青いが、呼吸は通っている。
「こちらへ」
ミナが言うと、ガイさんがすぐ寝かせた。
「瓦礫に挟まれていた」
「足を見ます」
ミナは作業員の足に触れた。
骨は折れていない。だが、圧迫されて血の流れが悪くなっている。急に動かすと痛みと毒が一気に回る。
「足を高くしないでください。先に布を外します。こすらないで」
「もう一人は」
ガイさんが聞く。
声が低い。
焦りを抑えている声だ。
「状態は」
「返事なし。毒泡袋の近くだ」
ミナは一瞬だけ目を閉じた。
返事なし。
毒泡袋の近く。
それでも、まだ死んだとは限らない。
「リタさん、袋の位置は」
「壁の右。床の水に触れてる。近づくと揺れる。カミラが目印つけられるって」
カミラ。
その名前に、ミナの胸が少しだけ強張った。
見ると、旧パーティの弓使いが水路口のそばに立っていた。顔色は悪い。けれど、弓は構えている。
「直接射るなよ」
リタさんが釘を刺す。
カミラは頷いた。
「袋は狙わない。布だけ落とす」
矢が飛ぶ。
水路内の低い天井をくぐり、奥の壁近くに吊るされた布片を落とす。毒泡袋に触れない位置。ぎりぎり。
リタさんが口笛を吹いた。
「腕は落ちてないね」
「震えているわ」
「言うね」
「言えるうちに言うことにしたの」
カミラの声は静かだった。
ミナはその会話を聞きながら、作業員の足の処置を終える。
ここにも、過去がある。
でも今は、過去をほどく時間ではない。
命を先に運ぶ。
話は後だ。
******
二人目の救助は、息が詰まるほど遅かった。
水路内の音が小さい。
それが逆に怖い。
大きな音を立てられないからだ。
ガイさんは盾を床に置かず、壁にも当てず、体で通路を支えているらしい。バルドも途中から入った。まだ本調子ではないはずなのに、搬送役として黙って動いている。
「バルドさん、肩は」
ミナが水路口へ向けて聞くと、返ってきたのはバルドの低い声だった。
「無理はしてねえ」
「それは信用しきれません」
「……ミナに言われると反論しにくいな」
ほんの少しだけ、笑いが起きた。
すぐに消える。
水路の奥で、何かが揺れた。
リタさんの声が鋭く飛ぶ。
「止まって!」
全員の動きが止まった気配がした。
水の音だけが残る。
ミナの手のひらが冷たくなる。
患者の呼吸を見ながら、水路内の様子を想像する。毒泡袋は水に触れている。動けば揺れる。袋の膜は薄い。破れれば霧が増える。
「今、動かないでください」
ミナは水路口へ向けて言った。
「袋が揺れているなら、揺れが戻るまで待って。息を止めすぎないで。短く吸って、吐いて」
しばらく誰も動かなかった。
永遠みたいに長い数秒。
やがて、リタさんが息を吐く。
「揺れ、止まった」
ミナも息を吐いた。
その直後だった。
水路の奥から、鈍い音。
ぼこり、と何かが破れるような音がした。
「小さいのが破れた!」
リタさんの声。
同時に、蓋の隙間から濃い緑の霧が押し出された。
広場の患者たちが一斉に咳き込む。
セラさんが叫ぶ。
「ミナさん、手が足りません!」
ミナは杖を握った。
水路から二人目の作業員が運び出される。
意識はない。
広場では、複数の患者が同時に倒れた。
治す順番が、また崩れそうになる。
ミナは息を吸った。
怖い。
でも、見る。
今、見なければ間に合わない。
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