第40話 南門の毒霧
南門へ向かう道で、ミナは走りながら息を浅く整えていた。
朝の街は本来なら荷馬車と露店の声でにぎやかな時間だ。けれど今は、誰もが南門の方角を見て足を止めている。
風に、緑が混じっていた。
色が見えるほど濃いわけではない。だが、喉の奥に薄い苦みがまとわりつく。吸い込みすぎれば、咳が出る前に肺の内側が重くなる毒だ。
「ミナ」
ガイさんが横で短く呼ぶ。
「まだ大丈夫です。でも、布を口元に。濡らしすぎないでください」
「わかった」
ガイさんは走りながら布を当てた。
リタさんは少し先を走り、風向きと人の流れを見ている。セラさんは剣に手を添えたまま、道をふさぐ人を避けて進む。
ノエルさんは息を乱していない。
少し腹立たしいくらい整っている。
「ノエルさん、苦しくありませんか」
「魔術師は肺を使う仕事ですので」
「今、その説明は少しだけ悔しいです」
「記録しておきます」
「しなくていいです」
軽口を返せた。
返せるうちは、まだ大丈夫。
ミナはそう自分に言い聞かせた。
南門の広場が見えた瞬間、足が止まりかけた。
荷馬車が横倒しになっている。露店の布が濡れ、石畳に緑がかった水が細く流れている。用水路の蓋の隙間から、低い霧がゆっくり漏れていた。
人が多い。
多すぎる。
咳き込む商人。泣き叫ぶ子ども。腕に赤い斑点が出た女。壁にもたれて座り込む老人。膝をついた冒険者。神殿職員が解毒薬を配っているが、列はすでに崩れていた。
「解毒薬を飲ませてください!」
「こっちを先に!」
「子どもが熱を出してるんだ!」
「水路に近づかないで!」
声が重なる。
情報にならない。
ミナは杖を握った。
怖い。
でも、怖いと思っている時間はない。
「ガイさん、歩けない人を壁際ではなく風上へ。リタさん、水路と霧の流れを見てください。セラさん、布と水を集めてください。水は飲ませる前に匂いを確認して」
「了解」
「はい!」
「布と水ですね!」
三人が散る。
その動きの速さに、ミナの胸が少しだけ温かくなった。
怒っていても。
傷ついていても。
合図を聞いてくれる。
今は、それが救いだった。
******
ミナは最初に、叫んでいる人へ向かわなかった。
声の大きい人は、目立つ。
苦しそうに見える。
実際、苦しい。
でも、声が出ている。
空気は通っている。
危ないのは、静かな人だ。
ミナは壁際に座り込んでいる荷運び人へ駆け寄った。男は目を開けているのに、反応が遅い。唇が白い。首の筋肉が浅く動くだけで、胸がほとんど上がっていない。
「この人を風上へ」
「先にこっちを見てくれ! うちの親父が咳をしてる!」
誰かが叫ぶ。
ミナは振り向かない。
「咳が出ている人は座らせて、布を口に。当てるだけです。強く縛らないでください」
「聞いてるのか!」
「聞いています。だから順番を変えます」
声が自分でも冷たく聞こえた。
でも、甘くできない。
ミナは荷運び人の手首に触れた。
毒は肺から入っている。喉の奥で粘り、呼吸を浅くしている。皮膚からの毒は少ない。水は飲んでいない。なら、今すぐ全身へ解毒を流すより、まず空気の道を開く。
「治癒支援を入れます。呼吸を補助します」
言ってから、胸が少し痛んだ。
治癒支援。
便利な言葉だ。
でも今、やることはヒーラーの仕事だ。
ミナは細く術式を立ち上げた。喉の腫れを直接消しすぎない。痛みまで消すと、本人が無理に吸い込む。呼吸筋が止まらないよう、ほんの少しだけ拍を整える。
男の胸が、かすかに上がった。
「息を急がないで。短く、ゆっくり」
聞こえているかはわからない。
それでも言う。
言葉は、体より遅れて届くことがある。
ガイさんが男を抱え上げた。
「次は」
「水路に近い方から離してください。でも、歩ける人は自分で歩かせて。ガイさんが倒れます」
「俺は倒れん」
「倒れる前に止めます」
「なら従う」
短いやり取り。
それだけで、少し息ができた。
******
リタさんが戻ってきた。
「水路の蓋、三か所から霧。風は南から北へ少し。霧は地面を這ってる。背の低い子どもが吸いやすい」
「ありがとうございます。水は」
「用水路は駄目。井戸水は今のところ匂いなし。ただ、運ぶ桶が汚れてる」
「桶を分けてください。洗浄用と飲用を混ぜないで」
「はいはい。混ぜた人はあたしに怒られる係」
リタさんが周囲へ飛んでいく。
セラさんは布を抱えて戻ってきた。額に汗がにじんでいる。
「ミナさん、布です。あと、水は神殿の人が持ってきています」
「セラさん、声が出ている人には青い布。座らせて待機です。唇が白い人、返事が遅い人、眠そうな人は赤い布を」
「赤が先ですね」
「はい」
セラさんは頷き、すぐに走った。
迷いはある。
それでも動く。
ミナは次の患者へ向かおうとして、ふと視界の端で止まった。
泣き声がしない子どもがいる。
母親らしい女性が抱えているが、女性自身が泣いていて、子どもの静けさに気づいていない。
子どもの唇が紫になりかけていた。
喉の奥が腫れている。
呼吸が細い。
泣けないのだ。
ミナはそちらへ駆けた。
「その子を先に」
周囲の声が、一瞬止まった。
次に、怒りが来る。
「こっちの方が苦しんでるだろ!」
「子どもだけ特別か!」
「順番を守れ!」
声が刺さる。
ミナの指先が冷える。
でも、子どもの胸はもうほとんど動いていない。
迷う余裕はなかった。
「その子を、今すぐ」
ミナはもう一度言った。
今度の声は、震えなかった。
******
この話が良かった、参考になったと思ったらお好きな数だけつけてください!
また見たい!と思ったらブックマークもお願いします!




