第35話 もう一度、合図を聞く
# 第35話 もう一度、合図を聞く
午後のルシェル西端で、ミナたちは古い石橋の下に立っていた。
小規模救助依頼だった。
けれど、足場は思ったより悪い。
橋の下を流れる細い川は浅い。だが、雨の後で石がぬめり、岸辺の土が崩れかけている。落ちた荷運び人は、橋脚の根元に引っかかった荷車の横で身動きが取れなくなっていた。
魔物はいない。
毒もない。
それでも、焦れば二人目が落ちる。
そういう依頼だった。
「救助対象、意識あり。右足を挟まれてる」
リタさんが橋の上から状況を見て戻ってきた。
「荷車を動かせば抜けるけど、支え方を間違えると車輪が落ちる」
ガイさんが川辺の土を踏む。
「俺が下りる」
「下りる場所は選びます」
ミナはすぐに言った。
ガイさんは頷く。
「任せる」
その一言は、以前なら嬉しかった。
今も嬉しい。
でも、それだけでは足りない。
ミナは全員を見る。
「先に言います。今から入れるのは治癒支援です。ガイさんには足首と膝の負担を逃がすだけ。痛みは消しません。セラさんには、踏み込みを軽くする支援は入れません」
セラさんが顔を上げる。
「入れないんですか」
「はい。今日は、セラさん自身の判断を確認したいので」
セラさんは少し緊張した顔で頷いた。
「わかりました」
リタさんが軽く手を上げる。
「あたしは?」
「集中を上げすぎると、足元の感覚が鈍るかもしれないので、今日は入れません」
「了解。素のあたしで頑張る」
リタさんは軽く言うが、目は真剣だ。
ミナはガイさんの足首に短い支援を入れた。筋肉を強くするのではない。土の沈みに合わせて、負担が一点に集まらないよう逃がす。
「終わりました」
「わかった」
ガイさんは川辺へ下りる。
ミナは息を整える。
隠していない。
何をしたかを言った。
たったそれだけなのに、いつもの支援より魔力の流れが少し素直に感じた。
******
救助は途中まで順調だった。
リタさんが荷車の固定具を外し、ガイさんが車体を支える。セラさんは橋脚の横で、荷運び人の上半身を支えていた。
荷運び人は青い顔をしているが、受け答えはできる。
「すみません、すみません」
「謝らなくていいです。息を吐いてください」
ミナは声をかける。
足の痛みは強い。骨は折れていないが、挟まれた部分が腫れている。抜いた後に血が急に巡ると痛みが跳ねる。先に少しだけ循環を整えておいた方がいい。
ミナは荷運び人へ説明した。
「足を抜く時に痛みが強くなります。少しだけ痛みを抑えますが、完全には消しません。気分が悪くなったら言ってください」
「は、はい」
了承を得てから、治癒を入れる。
それをセラさんが見ていた。
ミナは気づいている。
見られていることが怖くないわけではない。
でも、見ていてほしいとも思った。
何をしているのか。
どこまでしているのか。
もう、隠したくない。
「ガイさん、少し上げます。リタさん、固定具を外して」
「はいよ」
車体がゆっくり持ち上がる。
荷運び人の足が抜ける。
その瞬間、橋の上から小さな音がした。
ぱき。
乾いた音。
ミナの目が上へ行く。
荷車に絡んでいた古い板が、橋の縁で割れかけている。落ちれば、セラさんのすぐ横へ来る。セラさんは荷運び人を支えていて、反射的に前へ出れば、板と一緒に川へ落ちる。
「セラさん、止まって」
短く言った。
セラさんの体が動きかけ、止まった。
本当に、止まった。
次の瞬間、板が落ちた。
セラさんの目の前をかすめ、川へ落ちる。水が跳ねた。
セラさんの顔が青くなる。
もし一歩出ていたら。
考えなくても、わかった。
ミナはすぐに続ける。
「次、右から回ってください。支援は入れません。自分の足で。荷運び人の肩を持って、体を引きすぎないで」
セラさんは一度だけ唇を噛んだ。
「はい」
返事は震えていた。
でも、動きは落ち着いていた。
右から回る。足場を確認する。荷運び人の肩を支える。引くのではなく、体重を預けさせる。
できている。
ミナは手を出さなかった。
出したくなった。
でも、出さなかった。
セラさんは自分の足で、荷運び人を安全な場所へ移した。
ガイさんが車体を下ろし、リタさんが固定具を外へ投げる。
依頼は終わった。
誰も落ちなかった。
誰も増えなかった。
二次被害は、出なかった。
******
帰り道、セラさんはしばらく黙っていた。
夕方の風が川沿いを抜け、草の匂いを運んでくる。荷運び人はギルドの馬車で先に運ばれた。命に別状はない。
リタさんは少し離れて歩いている。ガイさんも何も言わない。
たぶん、セラさんの言葉を待っている。
ミナも待った。
焦って聞かない。
治療と同じだ。本人の言葉が出る前に、こちらが全部決めてはいけない。
やがて、セラさんが口を開いた。
「止まれました」
「はい」
「怖かったです」
「はい」
「ミナさんの合図を聞いて止まるのも、止まらなかったらどうなったか考えるのも、どっちも怖かったです」
セラさんは前を見たまま言う。
「でも、止まれました」
ミナは頷いた。
「はい。セラさんが、自分で止まりました」
その言葉に、セラさんの表情が少し崩れた。
泣くかと思った。
でも、泣かなかった。
「まだ、全部は平気じゃありません」
「はい」
「ミナさんが嘘をついていたこと、すぐには平気になれません」
「はい」
「でも」
セラさんは、ミナを見る。
「合図は聞けました」
ミナの胸が熱くなる。
許されたわけではない。
元通りでもない。
でも、壊れたまま終わりではなかった。
「ありがとうございます」
ミナが言うと、セラさんは少しだけ困った顔をした。
「私が言う方では」
「今日は、私が言いたいです」
セラさんは小さく頷いた。
リタさんが後ろから軽く言う。
「じゃ、次は甘いものの近くで依頼したいね」
「それ、まだ言ってるんですか」
「重要条件」
ガイさんが低く笑った。
少しだけ、いつもの音が戻った。
******
ギルドへ戻ると、ラウラさんがカウンターで待っていた。
いつもの事務的な顔だった。
けれど、手に持っている封書を見て、ミナはすぐにわかった。
神殿。
白い封筒。硬い封蝋。
ラウラさんはミナへ差し出す。
「神殿から、正式な召喚状です」
ミナは受け取った。
指先が少し冷たい。
封書には、同席者の名前が書かれていた。
封書には、ミナ・リース本人聴取、とある。
同席者は、ギルド担当者、魔術師組合鑑定者、神殿治療管理者。
逃げられない文字だった。
背後で、ノエルさんの声がした。
「逃げない方がいい」
振り向くと、彼はいつものように整った姿で立っていた。
「ここからは、記録の戦いです」
ミナは封書を握る。
治療ではない。
戦闘でもない。
でも、きっとこれも、誰かが生きていくために必要な場面なのだ。
ミナは小さく頷いた。
「行きます」
今度は、逃げずに。
******
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