第32話 戻る場所はありません
黒苔廃坑から戻った午後、ミナはギルドの救護室で処置記録を書いていた。
外はまだ明るい。
けれど、部屋の中には薬草と汗と胞子除けの香草が混じった重い匂いが残っていた。
救助された紅蓮の剣は、全員が別々の寝台や椅子に座らされている。
バルドさんは一番奥の寝台。左肩を固定し、肋骨の痛みが呼吸を邪魔しないよう包帯で支えている。グレンさんは右膝に湿布。カミラさんは指先と喉の処置。イザークさんは魔力循環の乱れが落ち着くまで安静。
誰も死ななかった。
それだけは、よかった。
ミナはペンを走らせる。
記録欄には、必要なことだけを書く。
バルド。
左肩腱損傷、肋骨ひび、胞子吸引による呼吸反応。
応急治癒、呼吸確保、毒性反応抑制。
神殿搬送後、正式治療を推奨。
書く手が少し止まった。
応急治癒。
もう、補助とは書けない。
書いてはいけない。
ミナはペン先を紙から離し、息を吐いた。
「ミナ」
グレンさんの声だった。
振り向くと、彼は寝台の端に座っていた。膝を痛めているのに立とうとしている。
「立たないでください」
「少しくらい平気だ」
「平気ではありません。膝の周りが熱を持っています」
「うるさいな」
いつもの返事。
それなのに、声に少し力がない。
グレンさんはミナを見た。
「やっぱり、お前は紅蓮の剣に必要だ」
救護室の空気が止まった。
ミナはペンを置いた。
今度は、聞き間違えなかった。
「今度は、お前の支援も評価してやる。報酬も考える。だから戻れ」
評価してやる。
その言葉は、思っていたより静かに胸へ刺さった。
怒りが湧くと思った。
でも、最初に来たのは疲れだった。
この人は、まだ同じ場所にいる。
ミナが追放された日のテーブルから、一歩も動いていない。
必要なら置く。
不要なら外す。
評価してやる。
報酬も考える。
そこに、ミナが何を怖がり、何を失い、何を選んだのかは入っていない。
「戻りません」
ミナは言った。
「またそれか」
「はい」
ミナはグレンさんを見た。
「戻る場所はありません」
グレンさんの目が鋭くなる。
「紅蓮の剣が、お前のいた場所だろう」
「いました。でも、もう戻る場所ではありません」
グレンさんが立ち上がりかける。
ガイさんが救護室の入口で腕を組んだ。いつからそこにいたのか、ミナは気づかなかった。
リタさんも壁にもたれている。セラさんは少し離れた椅子に座って、俯いていた。
セラさんの顔を見ると、胸が痛い。
でも今は、グレンさんに言わなければならない。
「私は、助けに行きます。必要なら治療もします。でも、紅蓮の剣には戻りません」
「なぜだ」
グレンさんは本当にわかっていない顔をしていた。
ミナは少しだけ息を吸う。
「あそこでは、私は役立たずでした」
「今は違うと言ってるだろう」
「今だけ違うと言われても、戻れません」
言葉にすると、胸の中で固まっていたものが少し崩れた。
「私が欲しかったのは、必要になってから呼ばれる場所ではありません」
グレンさんは黙った。
バルドさんが寝台の上で、小さく息を吐いた。
「ミナ」
声はかすれていた。
「俺は、助かっていたことを分かっていなかった」
ミナはバルドさんを見る。
「すまん」
短い謝罪だった。
でも、重かった。
グレンさんのように大きくもなく、イザークさんのように理屈でもない。ただ、自分の知らなかったことを認める声。
ミナはすぐには答えられなかった。
「……助かって、よかったです」
やっと、それだけ言った。
******
イザークさんは、黙っていなかった。
当然のように。
「感動的なところ悪いけど、問題は残っている」
彼は椅子に座ったまま、青白い顔でこちらを見た。
「補助魔術師登録で、ここまでの治癒式を使った。しかも魔法式をその場で改造している。これはギルドにも神殿にも報告すべきだ」
ミナの背筋が冷える。
わかっていた。
こうなることは、わかっていた。
「報告はします」
ミナは言った。
イザークが少し目を細める。
「ずいぶん素直だね」
「処置記録は残します。何をしたか、次に診る人がわからないと困ります」
「そういう話ではない」
「そういう話でもあります」
自分でも、こんなふうに言い返すとは思っていなかった。
イザークは苛立ったように杖を握る。
すぐに顔をしかめた。魔力循環がまだ乱れているせいだ。
「あなたは、今日は詠唱しない方がいいです」
「君に言われなくても」
「言わないと、また撃つので」
リタさんが小さく吹き出した。
イザークの顔が赤くなる。
カミラさんが、静かに口を開いた。
「やめなさい、イザーク」
「何を」
「私たちは助けられたのよ」
カミラさんの声は疲れていた。
でも、今度は逃げていない。
「報告は必要。記録も必要。でも、今ここで彼女を責めるために使うのは違う」
イザークは何か言いかけたが、グレンさんが黙っているのを見て口を閉じた。
ミナは処置記録へ戻る。
書かなければならない。
自分が何をしたのか。
何を隠していたのか。
紙は嘘をつかない。
少なくとも、ミナが嘘を書かなければ。
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救護室を出ると、廊下は思ったより静かだった。
ガイさん、リタさん、セラさんが待っている。
ミナは足を止めた。
謝らなければ。
説明しなければ。
でも、言葉がまとまらない。
リタさんが先に口を開いた。
「ミナちゃん」
「はい」
「今度は、こっちに説明して」
声は軽くなかった。
責めている。
怒っている。
でも、聞くつもりはある。
ミナはそれがわかった。
セラさんは俯いたままだった。いつもの明るい目が見えない。
ガイさんは短く言う。
「会議室を借りる」
ミナは頷いた。
逃げたい。
心の底から、そう思った。
でも、逃げれば、また誰かに判断材料を渡さないままになる。
ノエルさんに言われたことが頭をよぎる。
危険を測れないことが問題です。
ミナは拳を握った。
「はい。話します」
自分の声は、とても小さかった。
でも、今度は嘘ではなかった。
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