第31話 これは支援ではありません
黒苔廃坑の奥で、ミナは八人分の呼吸を数えていた。
新パーティ四人。
紅蓮の剣四人。
全員を外へ戻すには、多すぎる人数だった。
けれど、多すぎるから置いていく、という選択はない。
ミナはバルドさんの呼吸を支えながら、坑道の空気を読んだ。黒苔の胞子は奥から手前へ流れている。さっきの火術で乾いた苔が弾け、細かな毒の霧になっている。風は弱い。だから、流れは遅い。
遅いなら、まだ間に合う。
「リタさん、右の坑道は」
「崩落跡。狭いけど通れるのは小柄な二人まで」
「使いません。全員通れない道は退路にしません」
「了解」
「ガイさん、先頭で盾を斜めに。胞子を受けるのではなく、流してください」
「わかった」
「セラさん、バルドさんの右側を支えてください。肩を引っ張らないで、腰を支えます」
「はい」
セラさんの返事は早い。
でも、その声の奥には揺れがあった。
ミナの言葉。
これは支援ではありません。治癒です。
それを聞いた直後なのだ。無理もない。
今は聞けない。
聞かれたら答える。
でも、今は全員を外へ戻す。
ミナはグレンたちへ視線を向けた。
「グレンさん、歩けますか」
「歩ける」
「走らないでください。右膝が沈みます」
「何度も言うな」
「何度でも言います。聞いてください」
グレンの顔が歪む。
昔なら、ここでミナは黙った。
でも、黙れば誰かが倒れる。
カミラが短く言った。
「グレン、聞いて」
グレンは舌打ちしたが、それ以上は言わなかった。
イザークは杖を握りしめている。目は怒っているが、顔色は悪い。魔力循環の乱れが額の汗に出ていた。
「イザークさん、詠唱しないでください」
「わかっている」
「怒っている時ほど、魔力が跳ねます。杖を握る力を緩めて」
「だから、わかっていると言っているだろう」
わかっていない。
でも、ここで言い合う時間はない。
ミナは一瞬だけ迷い、イザークの手首へ細い支援を入れた。筋肉の緊張をゆるめるだけ。魔力には触れない。触れれば、また別の問題になる。
イザークが目を見開いた。
「今、何を」
「杖を折らないための支援です」
「君は」
「後で聞きます。今は歩いてください」
リタさんが吹き出しそうな顔をした。
「ミナちゃん、強い」
「強くはないです」
「今は強いよ」
その軽口に、少しだけ息が戻る。
******
撤退は、遅かった。
バルドさんを支えながら進むため、走れない。グレンは右足を庇う。カミラは指先の感覚が鈍く、弓を構えられない。イザークは詠唱禁止。
戦力として見れば、ひどい。
でも、救助対象として見れば、まだ全員生きている。
それで十分だ。
途中、奥から黒苔に寄生された小型魔物が現れた。鼠に似ているが、背中に黒い苔を生やしている。噛まれれば胞子が傷口から入る。
セラさんが剣を抜く。
「私が」
「一歩だけ」
ミナが言うと、セラさんはぴたりと止まった。
「一歩だけ出て、右へ流してください。倒さなくていいです」
「はい」
セラさんは一歩出る。
剣が走る。
魔物を斬り伏せるのではなく、横へ弾く。ガイさんの盾がそれを受け、リタさんの短剣が足を止める。
いい。
倒す必要はない。
進めればいい。
グレンがその動きを見て、わずかに顔をしかめた。
「甘い」
「帰るためです」
ミナは即座に返した。
「今は討伐ではありません」
グレンは黙った。
その沈黙が、昔より少しだけ短く感じた。
坑道の中ほどで、カミラの足がもつれた。
ミナはすぐに気づく。
「カミラさん、止まって」
カミラは止まった。素直だった。昔よりずっと。
「左手を見せてください」
「今?」
「今です」
指先が冷たい。震えがある。弓を引き続けた疲労に、胞子の影響が重なっている。放置すれば、手の感覚が戻るまで時間がかかる。
ミナは迷った。
ここで治療すれば、また見られる。
でも、もう隠していない。
「痛みは消しません。震えだけ抑えます」
カミラが小さく頷く。
「お願い」
その一言が、少しだけ胸に刺さった。
昔、言ってほしかった。
助けてほしいなら、そう言ってほしかった。
ミナは短い治癒支援を入れた。血の巡りを少しだけ戻し、指の震えを抑える。弓を引けるほどではない。歩いて帰れる程度。
カミラが息を吐く。
「ありがとう」
遅い。
そう思った。
でも、ありがとうはありがとうだった。
ミナは頷くだけにした。
******
廃坑の出口が見えた時、外の光がひどく白く感じた。
リタさんが先に出て、周囲を確認する。
「外、安全。風上に移動!」
全員が外へ出る。
バルドさんを草地に寝かせ、グレンは膝をつく。カミラは座り込み、イザークは杖を地面についたまま黙っている。
ミナはすぐにバルドさんの処置を続けた。
肺の反応はまだある。肋骨の痛みも強い。左肩は固定が必要。神殿へ運ぶまでに悪化させないことが最優先だ。
ガイさんが水を持ってくる。
セラさんが包帯を差し出す。
リタさんは周囲を見張りながら、時々こちらを見る。
ミナは手を動かす。
見られている。
でも、もう止めない。
バルドさんの呼吸が落ち着いた頃、セラさんが小さく言った。
「ミナさん」
ミナは手を止めない。
「はい」
「私たちに使っていたのも、ヒールだったんですか」
来た。
当然の問いだ。
ミナは包帯の端を結び、ようやく顔を上げた。
セラさんの目は揺れている。怒りなのか、悲しみなのか、混乱なのか。たぶん全部だ。
ガイさんも、リタさんも黙っている。
ミナは逃げたくなった。
補助です。
異常対応です。
いつもの言葉は、もう使えない。
「はい」
ミナは答えた。
声は小さかった。
でも、嘘ではなかった。
「治癒式を土台にしていました。そこに、支援を混ぜていました」
セラさんの唇が少し震える。
「じゃあ、ミナさんは」
ミナは頷く。
「私は、ヒーラーです」
言った瞬間、胸の奥が痛んだ。
でも、その痛みは逃げるための痛みではなかった。
戻るための痛みでもない。
自分の名前を、ようやく手で触った時の痛みだった。
グレンがその場で顔を上げる。
イザークの目が細くなる。
カミラは、目を伏せた。
新しい仲間の前で、古い名前が外へ出た。
もう、戻せない。
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