第30話 紅蓮の剣、遭難
朝の黒苔廃坑へ向かう道で、ミナは何度も鞄の中を確認した。
救援依頼だった。
相手は、紅蓮の剣。
昨日、自分に戻れと言った人たちだ。
薬草、包帯、簡易解毒薬、濡らした布、呼吸補助用の小さな香草。準備はした。足りないものも多い。廃坑の奥で何が起きているかは、まだわからない。
それでも、進むしかない。
ガイさんが先頭近くを歩き、リタさんがさらに前で痕跡を見ている。セラさんはミナの少し横。いつもなら前へ出たがる彼女が、今日は歩幅を合わせていた。
「セラさん、無理に合わせなくても」
「合わせています」
「それは、見ればわかります」
「ミナさんが急に走り出したら止める係です」
ミナは瞬きをした。
「私、走り出しそうに見えますか」
「見えます」
セラさんはまっすぐ言う。
「いつもは人を止める側なのに、自分のことになると止まらなそうです」
言い返せなかった。
リタさんが前から振り返る。
「セラ、正解」
「正解もらいました」
「嬉しそうにしないでください」
少しだけ空気が軽くなる。
でも、廃坑が近づくにつれて、その軽さは薄れていった。
黒苔廃坑は、丘の斜面に開いた古い坑道だった。入口の木枠は半分腐り、石壁には黒い斑点が広がっている。近づくだけで、湿った土と古い鉄と、苦い草を焦がしたような匂いがした。
ミナは布を口元に当てる。
「胞子があります。入口付近は薄いですが、奥は濃いと思います」
リタさんが地面を見て頷いた。
「足跡は四人。入りはしっかり、出た跡はなし。途中で戻れなくなったね」
ガイさんが盾を構える。
「入る」
「はい」
ミナは全員へ短く支援を入れた。
呼吸を深くしすぎないようにする。肺に入る量を減らす。集中を保つ。足元の湿りで筋肉が冷えないよう、ほんの少しだけ温める。
今は、隠す余裕はない。
でも、まだ説明する時間もない。
セラさんが横目でこちらを見た。
「今の、支援ですか」
ミナは一瞬だけ迷い、答えた。
「呼吸を守る支援です。治癒式も少し混ぜています」
セラさんの目が揺れた。
それでも、頷いた。
「わかりました」
その返事だけで、ミナの胸が少し痛くなった。
******
坑道の中は暗く、湿っていた。
壁一面に黒苔が広がっている。触れなければすぐに毒が入るわけではない。けれど、揺らすと細かな胞子が舞う。火で焼けば、熱で乾いた胞子が一気に弾ける。
最悪の相性だ。
イザークさんの火術とは。
少し進むと、壁に焦げ跡があった。
ミナの足が止まる。
「火を使っています」
「だね」
リタさんが顔をしかめた。
「黒苔、焼けてる。でも焼き切れてない。胞子だけ散った感じ」
空気が重い。
ミナには、見えない粉が喉へ入り、肺の奥で小さな棘になる気配がわかった。そこに魔力の乱れも混じっている。黒苔の胞子はただ呼吸を邪魔するだけではない。体の中の魔力循環を鈍らせ、疲労を重くする。
奥から、かすかな咳が聞こえた。
セラさんが反射的に前へ出かける。
「止まって」
短く言うと、セラさんは止まった。
すぐ足元で、板が腐っていた。踏めば沈む。
「……はい」
セラさんの声は小さい。
ミナは頷く。
「右から回ります。リタさん、足場を」
「見えてる」
リタさんが短剣の鞘で床を叩きながら進む。安全な場所だけを選び、印をつける。
咳の声が近づく。
角を曲がった先で、バルドさんが倒れていた。
大きな体が、壁に寄りかかっている。盾は横に落ちている。左肩が不自然に下がり、胸が浅く上下していた。
「バルドさん」
ミナは駆け寄りかけて、足を止めた。
床の黒苔が踏まれている。近づき方を間違えると、胞子が舞う。
「リタさん、足場」
「左から二歩。三歩目は踏まない」
「はい」
ミナは指示通りに進み、バルドさんの前に膝をついた。
ひどい。
左肩の腱が伸びている。肋骨にひび。息を吸うたび、胸の奥で痛みが跳ねる。さらに胞子を吸って、喉と肺が反応している。呼吸が浅い。魔力循環も鈍い。
バルドさんの目が薄く開いた。
「ミナ……か」
「話さないでください」
「すまん、俺は」
「話さないで」
思ったより強い声が出た。
バルドさんは口を閉じる。
ミナは手を当てた。
支援では間に合わない。
これは治療だ。
しかも、かなり急ぐ。
でも、背中に視線を感じる。
セラさん。
リタさん。
ガイさん。
今ここで使えば、もうごまかせない。
迷いは、一呼吸だけだった。
師匠の声がする。
迷っている間に息は止まる。
「治療します」
ミナは言った。
セラさんが息を呑む気配がした。
「支援じゃ、ないんですか」
ミナはバルドさんから目を離さないまま答えた。
「これは支援ではありません。治癒です」
言った。
言ってしまった。
でも、手は止めない。
******
治癒式を立ち上げる。
まず呼吸。
肋骨を完全に治すには時間が足りない。今必要なのは、肺が広がる余地を作ること。痛みを消しすぎると無理に動いて悪化する。だから、吸えるだけの痛み緩和。肩は固定。胞子への反応は抑えるが、咳を完全には止めない。異物を出す反応まで消してはいけない。
細く。
深く。
必要な順番で。
バルドさんの呼吸が、少しだけ戻る。
「ガイさん、布を濡らして口元に」
「ああ」
「セラさん、盾を拾わないでください。重すぎます。今は体を起こす準備だけ」
「はい」
「リタさん、奥の足音は」
「三人。いや、二人半。ひとり引きずってる」
二人半。
言い方は軽いが、状況は悪い。
奥から、グレンの怒鳴り声が聞こえた。
「イザーク、火を撃つな!」
「ならどうするんだよ!」
次の瞬間、赤い光が坑道の奥で揺れた。
「駄目」
ミナの声が漏れた。
火が走る。
黒苔の壁が乾き、胞子が爆ぜた。
白ではなく、灰色に近い細かな霧が坑道を満たしていく。
「全員、吸わないで!」
叫ぶ。
ガイさんが盾を立て、風の流れを遮る。リタさんが煙玉を投げ、胞子の流れを少しだけ横へ散らす。セラさんはバルドさんの体を支え、ミナが作った呼吸の隙間を潰さないようにしていた。
奥から、グレンたちが現れた。
グレンは右足を引きずっている。カミラは口元を押さえ、目が涙で滲んでいる。イザークは顔色が悪く、杖を握る指が震えていた。
ミナは立ち上がった。
「グレンさん、右膝で踏み込まないでください。カミラさん、弓を引くのはもう無理です。イザークさん、次に火を撃ったら詠唱が崩れます」
言葉が勝手に出た。
昔は、言えなかったこと。
見えていたのに、言えなかったこと。
グレンが顔を歪める。
「命令するな」
その声に、体が少しすくむ。
でも、ガイさんが前に出た。
「今はミナの指示を聞け。死にたくないなら」
低い声。
坑道の空気より重い。
グレンは何か言い返そうとして、咳き込んだ。
ミナは全員の状態を見る。
戻る道。
呼吸。
足場。
胞子の流れ。
治療を続けながら撤退する。できることはそれだけだ。
「全員、外へ戻ります。倒す必要はありません。苔に触れないで。火は使わないで。息は浅く、短く」
イザークが睨む。
「君に指図される覚えは」
「あります」
ミナは初めて、彼の言葉を切った。
「今、あなたの魔力循環は乱れています。次に詠唱したら、途中で式が割れます。割れた火術は、ここでは全員を巻き込みます」
イザークの顔色が変わった。
図星だったのだろう。
ミナは杖を握る。
「帰ります」
誰も、すぐには反論しなかった。
廃坑の奥で、黒苔の胞子がゆっくり広がっている。
ミナはもう一度、全員に呼吸補助を入れた。
補助魔術師としてではない。
ヒーラーとして。
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