第29話 置いてきた痛み
その夜、ミナは宿の小さな部屋で、青いリボンをほどこうとして手を止めた。
窓の外はもう暗い。
ルシェルの通りからは、酒場帰りの冒険者たちの声が遠く聞こえていた。
今日は休日だったはずだ。
お茶を飲んだ。焼き菓子を食べた。髪紐を買った。セラさんに友達だと言ってもらい、リタさんに変な褒め方をされた。
それだけなら、眠る前に少し恥ずかしくなって、でも少し嬉しくて、枕元にリボンを置いて終われたはずだった。
終われなかった。
グレンの声が、まだ耳に残っている。
戻ってこい。
前のことは水に流してやる。
ミナはリボンをほどかず、そのまま椅子に座った。
机の上には師匠のノートがある。開いてはいない。開けば、何か厳しい言葉が出てきそうで、少し怖かった。
その時、窓の外で小さな音がした。
石が一つ、窓枠に当たったような音。
ミナは立ち上がる。杖を手に取り、窓を少し開けた。
下に、カミラが立っていた。
フードを深くかぶり、弓袋を背負っている。ギルドで見た時よりも、ずっと疲れて見えた。
「夜分にごめんなさい」
声は低い。
ミナは一瞬迷った。
迷ったけれど、断れなかった。
******
宿の裏手には、洗濯物を干すための狭い庭があった。
夜の空気は少し冷たい。樽の横に置かれた木箱に、ミナとカミラは距離を空けて座った。
気まずい。
気まずさにも種類がある。謝る前の気まずさ。怒る前の気まずさ。言わなくていいことを言わなければならない時の気まずさ。
今は、全部が混じっていた。
先に口を開いたのはカミラだった。
「グレンたちは、明日の朝に黒苔廃坑へ行くわ」
「本当に、行くんですね」
「ええ」
カミラは手袋を外した。指先に薄い包帯が巻かれている。
ミナの目は、反射的にそこへ行く。
「指、痛めています」
「少しね」
「少しではありません。弦を引く時に、薬指へ負担が逃げています。人差し指を庇っているから」
言ってから、ミナは口を閉じた。
昔と同じだ。
見てしまう。言ってしまう。カミラが隠したいものまで、体の状態として拾ってしまう。
カミラは苦笑した。
「そういうところ、変わらないのね」
「すみません」
「謝らなくていいわ。むしろ、謝るのは私の方」
その言葉に、ミナの胸が少し固くなる。
謝罪。
欲しかったはずのもの。
でも、いざ差し出されると、どう受け取ればいいかわからない。
カミラは手袋を膝に置いた。
「あなたがいた時、私は外しにくかった。弓を引く手が軽かった。疲れても、狙いが大きくぶれなかった」
ミナは黙って聞く。
「最初は、自分の調子がいいんだと思っていた。でも、あなたが抜けてから分かったわ。違った。あなたが支えていた」
夜風が、庭の端の草を揺らす。
カミラは続けた。
「バルドの肩も、グレンの膝も、イザークの魔力切れも、今は全部表に出ている。あなたがいた時は、ぎりぎりで表に出なかっただけ」
「……どうして、追放の時に言ってくれなかったんですか」
問いは、思ったより静かに出た。
カミラの肩が少し落ちる。
「面倒だったから」
ミナは息を止めた。
カミラは逃げなかった。
「グレンと揉めるのが。イザークに理屈で返されるのが。バルドが困る顔を見るのが。全部面倒だった。あなたが傷つくより、自分が波風を立てない方を選んだ」
正直だった。
正直すぎて、胸が痛かった。
嫌いだったからではない。
悪意があったからでもない。
面倒だったから。
その程度の理由で、ミナは席を失った。
ミナは膝の上で手を握った。
「それを、今言われても」
「ええ。遅いわ」
カミラは頷いた。
「謝れば済むとは思っていない」
「なら、どうして来たんですか」
「あなたに戻ってほしいからではないわ」
カミラは顔を上げる。
「戻らなくていい。あなたは、もう別の場所にいる」
その言葉は、グレンの「戻れ」と正反対だった。
ミナの胸の奥が、少しだけ揺れる。
「ただ、明日の依頼は危ない。黒苔は火に弱いけれど、火で焼くと胞子が広がる。イザークはたぶん、それでも火を使う。グレンは押す。バルドはいない」
「止めないんですか」
「止めたわ」
カミラは小さく笑った。
「聞かなかった。昔と同じ」
その笑いは乾いていた。
ミナは、何も言えなかった。
******
カミラが帰った後、ミナはしばらく裏庭に立っていた。
夜風が冷たい。
でも、部屋に戻る気になれない。
紅蓮の剣。
戻らない。
それは決めた。
けれど、危険が見えている。
バルドがいない。グレンの膝は沈む。イザークは火を撃つ。カミラの指は震える。黒苔の胞子は呼吸を奪う。
見える。
見えてしまう。
見えているのに手を出さないことは、治療室の外で負傷者を見送った時と似ていた。治せることと、治していいことは違う。そう思った日がある。
でも、明日はどうなのだろう。
助けられるかもしれない相手が、自分を捨てた相手なら。
手を出さないことは、境界線なのか。
それとも、ただの仕返しなのか。
ミナにはわからなかった。
部屋へ戻ると、机の上に神殿からの封書が置かれていた。
夕方、宿の主人が預かってくれていたものだ。グレンたちのことで頭がいっぱいで、開けるのを後回しにしていた。
封蝋には神殿の印。
ミナは息を吸い、封を切った。
紙には、こう書かれていた。
外部術者ミナ・リースへの本人聴取。
エレナ・アスター治療記録、および冒険者依頼中の治癒式痕跡について確認。
指定日時、三日後午前。
文字が、静かに並んでいる。
逃げ道のない文字だった。
ミナは紙を机に置く。
神殿。
紅蓮の剣。
新パーティ。
どれも、明日以降のミナを待っている。
今日は休日だったはずなのに。
ミナは青いリボンをほどき、机の端にそっと置いた。
そのリボンだけが、昼の光をまだ少し覚えている気がした。
******
翌朝、ギルドの鐘が鳴った。
通常の依頼開始の鐘ではない。
救援要請。
ミナは宿の階段を駆け下りる。
広間に入ると、ラウラさんが緊急依頼の紙を掲示板へ貼っていた。
そこには、短い文字が並んでいた。
依頼地、北の黒苔廃坑。
救援対象、紅蓮の剣。
負傷者複数。
毒性胞子あり。
ミナの指先が冷たくなる。
やっぱり。
そう思った自分が、嫌だった。
リタさんがすでに掲示板の前にいた。
「来ると思った?」
「来てほしくありませんでした」
「だよね」
ガイさんが盾を背負って近づく。
「行くのか」
短い問い。
ミナは、昨日からずっと迷っていた答えを口にした。
「助けに行きます」
戻るためではない。
許すためでもない。
ただ、命がそこにあるから。
「助けに行きます。戻るためではありません」
ガイさんは頷いた。
「わかった」
セラさんが剣を握る。
「私も行きます」
リタさんは軽く肩をすくめた。
「じゃ、友達の過去を拾いに行きますか」
友達。
その言葉で、ミナは少しだけ息ができた。
******
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