第28話 前のことは水に流せません
ルシェルのギルド広間で、ミナの言葉は思ったより静かに響いた。
私は、紅蓮の剣には戻りません。
そう言った直後、グレンの表情が固まった。
怒鳴られる。
そう思った。
昔なら、きっとそうだった。グレンは自分の決定を否定されることを嫌う。依頼の方針でも、報酬の分け方でも、撤退の判断でも。強い声で押し切り、周囲はそれに合わせる。
ミナも合わせてきた。
合わせなければ、場が乱れるから。
でも今、場はもう乱れていた。
リタさんは腕を組み、セラさんは唇を結び、ガイさんは黙ってミナの横に立っている。誰も、ミナに下がれとは言わない。
グレンが低く言った。
「聞き間違いか」
「いいえ」
ミナは首を横に振る。
「戻りません」
グレンは一歩近づいた。床板がきしむ。
「お前、わかってるのか。紅蓮の剣は上の依頼を受けている。お前が今組んでいる低ランクの連中とは違う」
セラさんの眉が跳ねた。
ミナは、今度はセラさんが出る前に言う。
「その低ランクの連中と、私は帰ってこられました」
グレンの目が細くなる。
「何だと」
「毒沼でも、崩壊遺跡の巣でも、戻ってこられました。討伐未完了の依頼もあります。でも、全員で帰りました」
「そんなもの、勝っていないだけだろう」
「勝って、帰れないなら意味がありません」
言った瞬間、胸の奥が少し熱くなった。
これは、昔の自分には言えなかった言葉だ。
旧パーティで、グレンが押せと言えば押した。カミラの指が震えていても、イザークの魔力循環が乱れていても、バルドの肩が限界でも、ミナは後ろでこっそり支えた。
勝たせてしまった。
帰れない勝利を、帰れるようにごまかしてしまった。
だから、グレンは気づかなかった。
壊れる前に止めることの価値を。
グレンは鼻で笑った。
「ずいぶん偉くなったな。補助魔術師になったら、口まで回るようになったか」
「偉くなったわけではありません」
ミナは指先を握る。
「ただ、前と同じには戻れないだけです」
******
イザークが肩をすくめた。
「感情論は結構だけど、問題は別にあるよ。ミナ、君は本当に補助魔術師なのかな」
広間の端で、何人かの冒険者がこちらを見ている。
その視線に気づいて、ミナの喉が固くなった。
職業。
木札。
嘘。
全部が一気に重くなる。
イザークはそれをわかっていて言っている。
「前の街の登録ではヒーラーだった。攻撃魔術は使えない。治癒式には妙な補助線を混ぜていた。今は補助魔術師。随分と便利な肩書きだ」
リタさんが小さく笑った。
「便利な肩書きなら、あんたたちも今欲しがってるんじゃないの?」
「斥候風情が」
「風情って久しぶりに聞いた」
リタさんは軽く返すが、目は鋭い。
ガイさんが一歩前に出る。
「その話は、本人がする。今ここで責めるための材料にするな」
「責めているのではなく、確認しているんだ」
イザークは眼鏡を押し上げる。
「無資格で治癒式を使っているなら、神殿の管轄にも関わる。魔術師を名乗って依頼を受けているなら、ギルドの職業登録にも関わる。どちらにしても、軽い話ではない」
嫌な言い方だった。
でも、間違ってはいない。
だから痛い。
ミナは、反論できなかった。
できない代わりに、別の言葉を選ぶ。
「今は、紅蓮の剣には戻りません。その話だけ、はっきりさせてください」
グレンの顔が赤くなる。
「お前、本気で言ってるのか」
「はい」
「前のことは水に流すと言ってるんだぞ」
その言葉で、ミナの中の何かが少しだけ冷えた。
水。
流す。
簡単な言葉だ。
でも、流される側は、息ができない。
「流せません」
ミナは言った。
声は、今度は震えなかった。
「前のことは、水に流せません。私は、流される側でしたから」
グレンが黙った。
カミラが小さく息を呑む。
イザークの表情からも、一瞬だけ余裕が消えた。
ミナは続ける。
「役立たずと言われたことも、後ろにいただけだと言われたことも、報酬を受け取るたびに申し訳なく思っていたことも、全部なかったことにはできません」
言葉にすると、胸が痛かった。
でも、痛みは悪いものだけではない。
どこに傷があるかを教えてくれる。
「私は、助けに行くことはあります。必要なら治療もします。けれど、紅蓮の剣には戻りません」
グレンの手が剣の柄へ動きかけた。
ガイさんの盾が、床を小さく鳴らす。
空気が張った。
カミラが初めて口を開いた。
「グレン。ここで揉めるのはやめて」
「お前は黙ってろ」
「黙っていた結果が、今でしょう」
短い言葉だった。
グレンがカミラを見る。
カミラは目を逸らさなかった。けれど、その顔は強いというより、疲れていた。
イザークが舌打ちする。
「時間の無駄だ。グレン、行こう。バルドの代わりなら別の盾役を雇えばいい。あるいは火力で押す」
「ああ」
グレンはミナを睨んだ。
「いい。お前がいなくても、紅蓮の剣はやれる」
その言葉は、昔と同じだった。
でも、ミナの胸への入り方は少し違った。
痛い。
それは変わらない。
けれど、全部を奪われるほどではない。
グレンたちは踵を返した。カミラだけが一瞬こちらを見て、何か言いかける。けれど、結局何も言わずについていった。
広間のざわめきが戻ってくる。
セラさんが、ようやく息を吐いた。
「ミナさん」
「はい」
「大丈夫ですか」
大丈夫。
そう言おうとした。
でも、リタさんが横から言う。
「嘘ついたら怒るよ」
ミナは少しだけ困って、それから首を横に振った。
「大丈夫では、ないです」
セラさんの顔が曇る。
「でも」
ミナは髪の青いリボンに触れた。
「一人ではないです」
その言葉に、ガイさんが小さく頷いた。
リタさんは、少しだけ笑った。
******
その日の夕方、紅蓮の剣が新しい依頼を受けたという話がギルドに流れた。
北の黒苔廃坑。
湿気の強い旧坑道で、黒苔と呼ばれる毒性の苔が広がっている場所だ。胞子を吸い込むと呼吸が浅くなり、魔力の巡りも鈍る。火で焼くと胞子が一気に広がるため、扱いを間違えると危険だと記録にある。
その説明を聞いた瞬間、ミナは胸の奥が冷えた。
「火で焼くと、危険なんですね」
セラさんが言う。
「イザークさん、攻撃魔術師でしたよね」
ミナは頷く。
イザークは火術が得意だ。紅蓮の剣でも、よく火力で押し切っていた。
黒苔廃坑。
火。
バルド不在。
グレンの意地。
嫌なものが、頭の中でつながっていく。
リタさんが掲示板を見上げる。
「止める?」
ミナは、すぐには答えられなかった。
戻らないと決めた。
でも、死んでいいとは思っていない。
その違いは、思っていたより難しかった。
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