第27話 戻ってこい、ミナ
ルシェルのギルド広間で、グレンの声がミナの前に落ちた。
休日の午後だった。
髪には、さっき買ったばかりの青いリボンが揺れている。
「お前、補助魔術師になったのか」
その問いは、ただの確認ではなかった。
責める音が混じっている。疑う音もある。何より、ミナが知らない場所で別の名前を持っていたことが気に入らない。そんな色が、グレンの目に浮かんでいた。
ミナは口を開きかけた。
補助魔術師です。
そう言えば、この場は少しだけ楽になるかもしれない。
でも、すぐ隣にはリタさんがいる。半歩前にはセラさん。奥ではガイさんが立ち上がっている。三人は、ミナの言葉を聞くつもりでいる。
嘘を重ねるには、近すぎた。
「……今は、そう登録しています」
やっと出た声は、思ったより小さかった。
グレンの眉が動く。
「今は?」
その横で、イザークが鼻で笑った。相変わらず、きれいなローブを着ている。けれど、裾に泥が跳ねていた。魔術師らしく整えた姿の中で、そこだけが妙に目立つ。
「おかしな言い方だね。君はヒーラーだったはずだ。いつから魔術師を名乗るようになったのかな」
広間のざわめきが、少し薄くなった。
ヒーラー。
その言葉は、セラさんの耳にも届いた。
セラさんの肩がわずかに動く。リタさんは何も言わない。ただ、視線だけが細くなる。
ガイさんがこちらへ歩いてきた。床板が小さく鳴る。
「ミナ」
低い声だった。
責める声ではない。
確認する声。
それが、余計に胸に重かった。
ミナは指先を握った。青いリボンの端が視界の端で揺れる。ついさっきまで、友達と呼んでいいのかと迷っていた。焼き菓子を分けてもらった。お茶が甘かった。
その時間が、遠くなる。
グレンは周囲の空気を気にした様子もなく、一歩近づいた。
「話がある。こっちへ来い」
命令の形だった。
ミナの体が、反射的に動きかける。
昔の癖だ。
紅蓮の剣にいた頃、グレンに呼ばれたら立つ。報酬の話でも、依頼の確認でも、叱責でも、まず立つ。それが当たり前だった。
でも、足は動かなかった。
動かなかったのは、ミナが強くなったからではない。
セラさんが半歩だけ前に出たからだ。
「ここで話してください」
声は少し固い。でも逃げていない。
グレンがセラさんを見る。
「誰だ、お前」
「セラ・ウィンです。ミナさんのパーティの剣士です」
「パーティ」
グレンは短く笑った。
馬鹿にしたような笑いだった。
「低ランクの寄せ集めだろう」
セラさんの頬が赤くなる。怒りだ。
ミナは慌てて一歩前に出た。
「グレンさん。用件を聞きます」
自分でも驚くくらい、声がまっすぐ出た。
グレンの視線がミナへ戻る。
「紅蓮の剣に、一度入れ」
広間の音が、本当に止まった気がした。
ミナは聞き間違いかと思った。
「一度、ですか」
「そうだ。次の依頼だけでいい」
グレンは腕を組む。
「バルドが使えない。湿地の依頼で膝と肩を痛めた。神殿で治療はしたが、盾役としてはまだ重い。お前の支援があるなら、穴は埋まる」
穴。
その言い方に、ミナの胸の奥が冷える。
人の怪我も、不安も、疲労も、全部「穴」になる。埋めればいいものになる。
「私の支援、ですか」
「ああ」
グレンは当然のように頷いた。
「お前、補助魔術師として評判になってるんだろ。だったら、ちょうどいい」
ちょうどいい。
ミナは、手の中にまだ焼き菓子の紙包みを持っていることに気づいた。リタさんがガイさんへの土産に買ったものとは別に、エレナさんへ渡そうと思っていた栞も鞄に入っている。
それらが、急に場違いに思えた。
リタさんが軽い声で言う。
「ちょうどいいって、何に?」
「部外者は黙ってろ」
グレンが睨む。
リタさんは笑った。
「うわ、懐かしい感じの態度。あたし、初対面だけど」
軽口なのに、目は冷たい。
ガイさんがミナの横に立った。
「ミナが決める」
短い一言だった。
その一言だけで、ミナの足元が少し戻ってくる。
グレンは面白くなさそうにガイさんを見上げた。体格差はある。だが、グレンはそれを気にしない人だった。自分の剣で届く相手なら、恐れない。
「お前が今のリーダーか」
「まとめ役ではある」
「なら話が早い。ミナを一度借りる」
「物じゃない」
ガイさんの声が低くなった。
ミナは胸の前で手を握る。
紅蓮の剣。
その名前を聞くだけで、昔の席順が蘇る。通路側の端。テーブルの隅。一人分の報酬を受け取ることすら、どこか申し訳なく思っていた場所。
今は違う。
そう思いたい。
でも、グレンの声を聞くだけで、体は昔の自分を覚えている。
******
カミラは、ずっと黙っていた。
壁側に立ち、弓袋を肩にかけたまま、こちらを見ている。目が合うと逸らす。けれど、完全には背けない。
ミナはその視線を見て、胸が少し痛んだ。
追放の日、カミラは反対しなかった。
嫌いなわけじゃない。ただ、今の紅蓮の剣には見える貢献が必要なの。
そう言った。
今、その彼女は何を見ているのだろう。
イザークが退屈そうに指を鳴らす。
「そもそも、彼女の現登録が補助魔術師なら、旧パーティへの一時同行は問題ない。支援役として雇えばいいだけだ。もっとも、本当に補助魔術師なら、だけど」
最後の言葉だけ、わざと薄く笑った。
セラさんが顔を上げる。
「どういう意味ですか」
「そのままの意味だよ。彼女は以前、ヒーラーとして登録されていた。僕たちのパーティにいた時もそうだ。攻撃魔術は使えない。なのに今は魔術師を名乗っている」
セラさんの視線が、ミナへ向いた。
まっすぐだった。
疑いというより、知りたい目。
だから痛い。
ミナはすぐに答えられなかった。
グレンはその沈黙を、自分に都合よく受け取ったらしい。
「細かいことは後でいい。ミナ、お前が来れば済む」
「済む、とは」
「バルドの穴を埋める。俺たちの動きを支える。前と同じだ」
前と同じ。
その言葉で、ミナの呼吸が少し止まった。
前と同じなら。
また後ろに立つ。
見えないように支える。
助けたことは記録に残らない。
終わった後で、何もしていないと言われる。
でも、グレンは続けた。
「前のことは水に流してやる」
広間の空気が、少しだけ変わった。
ミナの中でも、何かが変わった。
許してやる。
そういう言い方だった。
追放されたのは自分なのに。
役立たずと言われたのは自分なのに。
水に流してもらう側に、また置かれている。
ミナはゆっくり息を吸った。
甘いお茶の香りは、もう消えていた。
でも、髪のリボンはまだそこにある。
リタさんが選んでくれたもの。
セラさんが結んでくれたもの。
それが、ほんの少しだけミナの背中を押した。
「グレンさん」
「何だ」
「その話は、ここで終わりにしてください」
自分の声が、震えているのがわかった。
それでも、言葉は止まらなかった。
グレンの顔が険しくなる。
「どういう意味だ」
ミナは、青いリボンがほどけないように、そっと髪に触れた。
「私は、紅蓮の剣には戻りません」
その一言で、昔の自分が少しだけ遠ざかった。
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