第26話 閑話休題、甘いお茶と青いリボン
翌日の昼前、ミナはルシェル南通りの噴水前で、両手を胸の前にそろえて立っていた。
依頼ではない。
救助でもない。
待ち合わせだった。
しかも、休日の。
その事実が、ミナには毒沼より少し難しかった。
昨日、ガイさんは「今日は休め。全員だ」と言った。リタさんも「休むまでが依頼」と変なことを言い、セラさんは真面目な顔で「ミナさんを休ませる係をやります」と宣言した。
休ませる係。
そんな係は、たぶん冒険者ギルドの職業欄にはない。
でも今のミナは、その係に捕まっている。
杖は持っている。いつもの鞄も持っている。薬草袋も入っている。包帯も、予備の魔石も、簡易解毒薬もある。
つまり、いつでも依頼に出られる。
それがいけなかったらしい。
「ミナさん!」
明るい声が飛んできた。
セラさんが、通りの向こうから小走りで来る。今日は革鎧ではなく、淡い緑の上着に、動きやすそうな紺のスカートを合わせていた。剣は持っているけれど、いつもより少しだけ小さく見える。
いや、剣が小さくなったわけではない。
セラさんが、普通の女の子に見えるだけだ。
「お待たせしました」
「いえ、私も今来たところです」
「嘘ですね」
「え」
「ミナさん、待ち合わせに遅れるのが怖くて早く来る人です」
当たっていた。
ミナは少しだけ目を伏せる。
「……十五分くらいです」
「かわいいです」
「かわいくはないです」
「そこで否定するところも含めてです」
セラさんはにこにこしている。
戦場で前に出すぎる時の勢いとは違う。今日の勢いは、なんというか、柔らかい。綿を詰めた小さな鞄みたいだ。ぶつかっても痛くなさそうで、でも逃げ道は塞いでくる。
「二人とも早いね」
今度はリタさんが来た。
いつもの軽装ではあるけれど、腰の短剣が一本少ない。髪も少しゆるく結んでいて、歩くたびに耳飾りが小さく光る。
「リタさん、短剣が少ないです」
「休日だからね」
「でも一本はあるんですね」
「休日だから一本にしたんだよ」
基準がよくわからない。
ミナが考えていると、リタさんの視線がミナの鞄へ落ちた。
「で、ミナちゃん。その鞄、何入ってる?」
「えっと、薬草と、包帯と、予備の魔石と、簡易解毒薬と」
「没収」
「え」
「今日は買い物。治療室の引っ越しじゃない」
リタさんは手を出した。
ミナは鞄を抱え込む。
「でも、何かあった時に」
「何かあった時は、あたしが走る。セラが叫ぶ。ミナちゃんは最低限だけ使う」
「叫びます!」
「そこは胸を張るところではないような」
セラさんは元気に頷いた。
リタさんはミナの鞄から、薬草袋と予備の包帯を抜き取る。代わりに、小さな布袋だけを戻した。
「最低限。これでいい」
「これだと、本当に最低限です」
「そう。休日に必要なのは最低限の備えと、余分なお金」
「余分なお金」
ミナは腰の小袋に触れた。
昨日の報酬の一部が入っている。宿代、薬草代、杖の魔石代。必要なものを頭の中で引いていくと、余る額は多くない。
けれど、少しはある。
自分のために使ってもいいお金。
その考え方が、どうにも落ち着かなかった。
******
南通りの市場は、昼前でも人が多かった。
野菜を売る店、焼き菓子を並べる屋台、布地を吊るした露店、香り袋や髪飾りを置いた小さな店。依頼の準備で来たことは何度もある。防毒布を買った。革手袋も見た。解毒薬の値段に肩を落とした。
でも、今日は目的が違う。
「まずは服です」
セラさんが宣言した。
「服」
「はい。ミナさん、いつも同じローブなので」
「洗っています」
「清潔かどうかの話ではありません」
「破れてもいません」
「耐久の話でもありません」
セラさんは真剣だった。
リタさんが横で笑っている。
「ミナちゃん、装備として服を見てるでしょ」
「服は、動きやすくて、汚れても洗えて、邪魔にならない方が」
「ほら」
何が「ほら」なのだろう。
二人に連れていかれたのは、布地と既製服を扱う小さな店だった。色とりどりの布が棚に積まれ、窓際には淡い色の上着やスカーフが掛けられている。
ミナは思わず後ずさりしかけた。
値札が怖い。
魔石の値段とは別の意味で怖い。
「見るだけです。まずは」
セラさんが言う。
「まずは、という言い方が少し怖いです」
「大丈夫。ミナちゃんの財布を殺す買い物はしないよ」
リタさんの表現は時々物騒だ。
店の人は慣れた様子で、ミナのローブを見て、棚から柔らかい青灰色の肩掛けを出してくれた。
「お嬢さん、肌が白いから、濃すぎない色が似合いますよ」
「お嬢さん」
ミナは小さく繰り返した。
呼ばれ慣れない言葉だった。
冒険者。ヒーラー。補助魔術師。低評価。変な補助魔術師。
最近はいろいろな名前で呼ばれた。
でも、お嬢さん。
それは、何も背負っていない人みたいな呼び方だった。
「羽織ってみましょう」
セラさんが肩掛けを受け取る。
「買うとは」
「まだ言ってません」
まだ。
またその言い方だ。
肩に掛けられると、布は思ったより軽かった。戦闘用ではない。防毒もできない。火にも強くなさそうだ。泥が跳ねたら染みになるかもしれない。
でも、鏡の中のミナは少しだけ違って見えた。
いつものローブの上に、青灰色の布が一枚増えただけ。
それだけなのに、冒険者ギルドの掲示板の前で小さくなっていた自分とは違う人みたいだった。
「似合います」
セラさんが言った。
「うん。悪くない。むしろいい」
リタさんも頷く。
「でも、今日は買いません」
ミナは慌てて言った。
二人が同時にこちらを見る。
「今日は、もう少し小さいものからにしたいです」
言い訳のように聞こえたかもしれない。
でも、今のミナにはそれが精一杯だった。
服を一枚買うのは、まだ少し怖い。自分のためにまとまったお金を使うことが、体に馴染んでいない。
セラさんは一瞬だけ考え、それから明るく頷いた。
「では、小さいものからです」
「了解。無理に買わせる休日は休日じゃないしね」
リタさんが肩をすくめる。
ミナは、二人がすぐ引いてくれたことに少し驚いた。
押されると思っていた。
役立つなら買え。必要なら選べ。そういう話になると思っていた。
でも、違った。
休日の買い物は、勝つための準備ではないらしい。
それだけで、少し息がしやすくなった。
******
次に入った雑貨屋で、ミナは髪紐の前に立たされた。
立たされた、という表現で間違っていない。
セラさんが右に立ち、リタさんが左に立ち、店員さんが正面から微笑んでいる。完全に包囲されていた。
「髪紐なら、実用的です」
ミナは必死に言った。
「そうだね。だから逃げ道なし」
リタさんは楽しそうだった。
棚には、赤、青、緑、白、薄紫、淡い黄色。細いもの、太いもの、刺繍入りのもの、小さな飾りが付いたものが並んでいる。
どれもきれいだ。
きれいだけれど、選び方がわからない。
「ミナさんは、青系が似合うと思います」
「でも、戦闘中に目立つと」
「戦闘中につける前提をいったん置いてください」
「置く場所が」
「心の棚に」
心の棚。
セラさんは時々、勢いで不思議なことを言う。
リタさんが一本のリボンを取った。淡い青。派手ではない。端に小さな銀糸が縫い込まれていて、光に当たるとほんの少しだけ明るくなる。
「これ、ミナちゃんっぽい」
「私っぽい、ですか」
「控えめに見せかけて、よく見ると変」
「褒めていますか」
「かなり」
かなりらしい。
ミナはリボンを受け取った。
指先に布の柔らかさが残る。包帯とも、防毒布とも違う。傷を押さえるためではなく、ただ飾るための布。
何も治さない。
何も防がない。
でも、たぶん、こういうものも人には必要なのだろう。
「これにします」
声に出すと、少しだけ胸が跳ねた。
店員さんが包んでくれる。代金を払う時、ミナの指は少し震えた。高くはない。薬草一束より安い。
それでも、自分のために銅貨を出すのは勇気がいった。
小さな紙包みを受け取ると、セラさんが目を輝かせる。
「つけましょう」
「今ですか」
「今です」
逃げ場はなかった。
店先の小さな鏡の前で、セラさんがミナの髪を結んでくれる。手つきは思ったより丁寧だった。剣を握る手と同じ手なのに、髪に触れる時はやわらかい。
リタさんが横で腕を組む。
「うん。いいね」
「変ではありませんか」
「変な補助魔術師には似合ってる」
「結局、変なんですね」
「そこがいいんだって」
鏡の中で、ミナの髪に淡い青が揺れていた。
少し恥ずかしい。
でも、嫌ではなかった。
******
三人は、その後、南通りの奥にある小さな茶菓子店へ入った。
店の名前は「花硝子亭」。窓に色付きの硝子がはめられていて、昼の光がテーブルの上に薄い色を落としている。ギルドの食堂より静かで、椅子も軋まない。
ミナは椅子に座った瞬間、背筋を伸ばした。
落ち着かない。
静かすぎる。
誰も依頼の話をしていない。報酬の袋も広げていない。隣の席では、二人の女性が刺繍糸の色について話している。奥の席では、年配の夫婦が温かい茶を飲んでいる。
平和だった。
平和すぎて、どう座ればいいのかわからない。
「ミナちゃん、肩」
リタさんが言った。
「肩?」
「上がってる」
ミナは慌てて肩を下ろす。
「すみません」
「謝る場面じゃない」
セラさんが注文板を覗き込む。
「果実茶と、木苺の焼き菓子と、クリームを挟んだ薄焼き菓子があります」
「私は水で」
「却下」
リタさんの返事は早かった。
「でも」
「休日に水だけは駄目。体調が悪いなら別だけど」
「悪くはないです」
「じゃあ茶」
ミナは小さく頷いた。
注文した果実茶は、赤みがかった色をしていた。湯気に甘い香りが混じっている。飲むと、少し酸っぱくて、後から柔らかい甘さが来た。
焼き菓子は外がさくっとしていて、中に木苺のジャムが入っている。
ミナは一口食べて、目を瞬かせた。
「おいしいです」
「顔に出てる」
リタさんが笑う。
「出ていますか」
「かなり」
セラさんは嬉しそうに自分の皿を押した。
「こっちも少し食べますか」
「いいんですか」
「もちろんです。友達と来たら、分けるものです」
友達。
ミナの手が止まった。
セラさんは気づかず、薄焼き菓子を小さく割って皿に置く。リタさんは気づいていた。たぶん。
ミナは、皿の上の菓子を見つめた。
友達。
その言葉は、回復魔術より扱いが難しい。
旧パーティの仲間は、仲間だった。少なくとも、そう呼んでいた。けれど、友達と言えるかはわからない。食事はした。依頼にも出た。危険な場面も越えた。
でも、休日に髪紐を選んでもらったことはなかった。
焼き菓子を半分分けてもらったことも、たぶん、なかった。
「あの」
ミナは小さく言った。
「私も、友達って言っていいんですか」
セラさんが固まった。
リタさんも、一瞬だけ黙った。
しまった。
変なことを言った。
ミナが慌てて取り消そうとした時、セラさんが机に両手をついた。
「言ってください!」
「声が大きい」
リタさんが即座に突っ込む。
周りの客が少しこちらを見る。セラさんは顔を赤くし、慌てて座り直した。
「す、すみません。でも、言ってください。私は嬉しいです」
リタさんは頬杖をついた。
「あたしは、友達じゃない人の髪紐選びにここまで付き合わないかな」
「そういうものですか」
「そういうもの」
ミナは、胸の奥がじわりと温かくなるのを感じた。
治癒魔術をかけられたわけではない。
でも、どこかの古い痛みが、少しだけ薄くなる。
完全には消えない。
消えなくていい。
今は、薄くなるだけで十分だった。
「では」
ミナは焼き菓子を小さく持ち上げた。
「友達として、いただきます」
「そこ、そんなに丁寧に言う?」
「ミナさんらしいです」
二人が笑う。
ミナも、少しだけ笑った。
******
茶菓子店を出る頃には、空が柔らかい午後の色になっていた。
ミナの髪には、淡い青いリボンが結ばれている。紙包みの中には、エレナさんへの小さな押し花の栞も入っていた。外へ出たがっていた彼女に、南通りの話と一緒に渡そうと思ったのだ。
リタさんは焼き菓子を包んでもらっている。ガイさんへの土産らしい。
「ガイさん、甘いもの食べますか」
「食べるよ。顔には出さないけど」
「想像しにくいです」
「盾みたいな顔で、淡々と食べる」
「盾みたいな顔」
セラさんが笑いをこらえている。
ミナも少し笑った。
普通の会話。
依頼でも、治療でも、報告でもない。
ただ歩いて、買って、食べて、笑う。
こんな時間が、自分にもあるのだと知るだけで、足元が少し違って見えた。
ルシェルの石畳は、昨日までより少し明るい。
そう思った時だった。
ギルドの方から、ざわめきが流れてきた。
いつもの依頼帰りの騒ぎとは違う。人が道を空ける時の、少し固い音。声が低くなり、視線が一方向へ集まっている。
リタさんの目が細くなる。
「何か来たね」
セラさんが、自然にミナの半歩前へ出ようとした。
「セラさん」
「はい。出すぎません」
返事は早かった。
それが少し嬉しくて、少しだけ胸が痛かった。
三人がギルドの入口へ近づくと、広間の中で人の流れが割れていた。
ミナは足を止めた。
グレンがいた。
紅蓮の剣のリーダー。
かつてミナに、役立たずだと言った人。
彼は少し疲れて見えた。鎧に湿地の泥がついている。肩の留め具が片方ずれている。いつもの自信に満ちた立ち方は残っているが、どこか硬い。
背後にはイザークとカミラの姿もある。
イザークは不機嫌そうで、カミラはミナと目が合うとすぐ逸らした。
胸の奥が、昔の痛みを思い出す。
でも、ミナの髪には青いリボンがある。
隣にはリタさんがいる。
半歩前には、止まることを覚えたセラさんがいる。
少し離れた奥の席で、ガイさんが立ち上がるのも見えた。
ミナは一人ではなかった。
グレンの視線が、ミナの木札へ落ちる。
それから、髪のリボンへ一瞬だけ動いた。
知らないものを見るような目だった。
「ミナ」
その声を聞くだけで、体が昔の自分に戻りそうになる。
役立たずのヒーラー。
最後尾で遅れないように歩いていた自分。
でも、今日は違う。
ミナは小さく息を吸った。
グレンが眉を寄せる。
「お前、補助魔術師になったのか」
甘いお茶の余韻が、まだ舌の奥に残っていた。
青いリボンが、髪の先で小さく揺れた。
休日は、そこで終わった。
******
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