第24話 撤退してください
「撤退してください」
崩壊遺跡の石橋の手前で、ミナの声は自分でも驚くほどまっすぐ出た。
大きくはない。
けれど、迷いはなかった。
ガイさんが盾を構え直す。
リタさんが退路を見る。
セラさんだけが、一瞬動けなかった。
目の前の大型甲殻獣は、すでに脚の継ぎ目を傷つけている。あと少し押せば倒せるかもしれない。小型も、数は多いが一体一体は弱い。石橋の上さえ確保できれば、入口を塞ぐこともできそうに見える。
勝てる。
その感覚が、セラさんを前へ引いていた。
「でも、塞げます!」
叫びは、怒りというより悲鳴に近かった。
ここまで来た。
止まることも覚えた。
それでも、目の前の危険を残して帰るのは苦しい。
ミナにもわかる。
わかるからこそ、言わなければならなかった。
「塞ぐには、奥へ入る必要があります」
ミナは早口で言った。
大型甲殻獣がハサミを振る。ガイさんが盾で受けずに流す。金属音が石橋の下へ沈み、遺跡の奥で小さく反響した。
その音に合わせて、天井のどこかから砂が落ちる。
「石が鳴っています。音と振動で崩れます。奥の壁に毒泡袋があります。あれが破れたら、古い排水路へ流れます」
セラさんの剣先が揺れた。
「でも、今なら」
「今だからです」
ミナは彼女を見る。
責めない。
否定しない。
ただ、見えているものを渡す。
「ガイさんの膝はまだ動きます。でも、石橋の上で正面から受けたら引く時に遅れます。セラさんの足首もまだ切れていません。でも、割れた石を踏めばそこで終わります。リタさんの集中も保っています。でも、奥から出てくる数を全部は見切れません」
言葉を重ねるたび、補助魔術師という嘘が薄くなる。
これは、支援の説明ではない。
体の状態を読んでいる。
戦場が人を壊す順番を見ている。
「倒せる敵はいます。でも、倒してはいけない場所です」
セラさんの顔が歪んだ。
リタさんが矢をつがえながら叫ぶ。
「説得、あと三秒!」
「すみません!」
「謝るのも後!」
リタさんの矢が飛ぶ。大型の目元ではなく、足元の水面を叩いた。毒泡が横へ散り、ほんの少しだけ道が開く。
ガイさんが低く言った。
「撤退だ」
その一言で、場が決まった。
セラさんがガイさんを見る。
「ガイさん」
「ミナの判断に従う」
ガイさんは大型を押し返さず、流して下がった。
「俺たちは帰る。情報を持ってな」
重い声だった。
勝つための声ではない。
生きて戻るための声だ。
セラさんは唇を噛んだ。
悔しさが、目に浮かんでいる。
でも、剣を下げた。
「……はい」
その返事を聞いた瞬間、ミナは支援を組み替えた。
攻める支援ではない。
逃げるための支援。
ガイさんの膝から余計な踏ん張りを抜く。盾を支える筋肉に、短い休みを挟む。セラさんの足首に熱が広がらないよう、動きの角度を狭める。リタさんの視界が毒膜の反射に惑わされないよう、集中の糸を細く整える。
治す前に止める。
倒れる前に帰す。
「リタさん、退路は」
「石畳の左。右は泡が上がってる。あと、橋の下から何か来る!」
「セラさん、左の石だけ踏んでください。割れ目を越える時は剣を振らないで」
「はい!」
「ガイさん、三歩下がったら盾を低く。音を立てないで大型を横へ流します」
「任せろ」
動き出すと、時間が細くなる。
一歩。
毒泡が割れる。
ミナは息を止め、毒の膜が肺へ入りすぎないよう全員の呼吸を短く整える。
二歩。
石畳の割れ目から、小型の甲殻獣が這い出してくる。
セラさんが斬った。
倒すためではない。進路をずらすための一撃。
いい。
踏み込まない。
三歩。
ガイさんが盾を低く構え、大型のハサミを滑らせる。音は小さい。甲殻獣の体が泥の深い方へずれ、巨体が自分の重さで沈む。
「今!」
リタさんが叫ぶ。
全員が走る。
いや、走れない。
湿地でも遺跡でも、走ると沈むか割れる。
だから、急いで歩く。
この状況で「急いで歩く」は、なかなか難しい。ミナは心のどこかで変なことを思いながら、必死に足を動かした。
背後で大型が低く鳴く。
遺跡の奥から、硬い脚音が重なってくる。
ミナは振り返らない。
見るべきは後ろではない。
前の石。
仲間の呼吸。
帰る道。
******
撤退線だった石畳の手前まで戻ったところで、リタさんが小さな瓶を投げた。
瓶が割れると、薄い灰色の煙が水面を滑った。毒を消すわけではないが、甲殻獣の動きを一瞬鈍らせる匂いが混ざっている。
「時間稼ぎ! 長くはもたない!」
「十分です」
ミナは全員の状態を見た。
セラさんの足首に熱がある。
でも、切れてはいない。
ガイさんの膝は重い。
でも、まだ支えられる。
リタさんの目は乾いている。
でも、焦点は合っている。
全員、生きている。
まだ帰れる。
この「まだ」が、どれだけ貴重か。
ミナは、ようやく知っていた。
まだ歩ける。
まだ息ができる。
まだ判断できる。
まだ仲間の声が届く。
そのうちに退くから、次がある。
ぎりぎりまで粘ってから退くのでは遅い。ぎりぎりは、もう半分負けている。
遺跡の奥で、石が崩れる音がした。
大きくはない。
けれど、黒い穴の奥から緑の泡が一斉に浮かぶ。
リタさんが舌打ちした。
「あそこ、絶対に入っちゃ駄目なやつ」
「はい」
「ミナちゃんの真面目な返事、今は安心するわ」
「いつも安心してください」
「それは別問題」
こんな時でも軽口が出る。
帰れている証拠だ。
森の縁まで戻った時、背後の湿地から大型甲殻獣の低い鳴き声が聞こえた。
追っては来ない。
巣から離れられないのだろう。
ミナはそこで初めて、息を吐いた。
足が震える。
杖を地面につくと、手まで震えていることに気づいた。
セラさんが振り返る。
毒沼の奥には、まだ崩れた遺跡がある。
大量の魔物がいる。
毒泡袋が残っている。
倒せなかった。
依頼は未完了。
その事実が、セラさんの肩に乗っている。
「私、悔しいです」
小さな声だった。
ミナは頷く。
「はい」
「でも、あれは、私たちだけで入る場所じゃありませんでした」
「はい」
否定しない。
勝てなかったわけではない。
勝つ形ではなかった。
その違いは、悔しい。
ガイさんがセラさんの肩に手を置く。
「次は、封鎖の準備をして戻る」
「はい」
リタさんが腰に手を当てた。
「あたしは次、遺跡用の縄と粉と、あと長い棒を持ってく。棒は大事」
「棒、ですか」
「怪しい床は他人の足じゃなく棒で確かめる。基本」
「とても大事ですね」
セラさんが真面目に頷く。
ミナは少し笑った。
笑える。
全員で戻ったからだ。
******
ギルドに戻ると、空気は予想通り重かった。
討伐未完了。
その言葉は、受付の周りで小さな波のように広がる。
失敗ではない。
でも成功でもない。
冒険者たちは、そういう結果に敏感だ。
ラウラさんが報告を受け取り、すぐ会議室へ通した。ノエルさんも呼ばれていたらしい。壁際ではなく、今回は席についている。
「状況を確認します」
ラウラさんが言う。
ミナは順に報告した。
毒沼奥地の崩壊遺跡。半水没した石橋。大型甲殻獣一体。小型多数。別種の毒持ち魔物。壁に張り付いた毒泡袋。南へ流れる古い排水路。石床の空洞。戦闘音による崩落の兆候。
言えば言うほど、討伐依頼ではなく災害の報告に近づいていく。
そして、言えば言うほど、職業の問題にも近づいていく。
ガイさんの膝、セラさんの足首、リタさんの集中低下。
ミナがどう見たのか。
なぜ撤退を選んだのか。
全部を説明しなければ、次に入る人が危ない。
だから、もう止めなかった。
ノエルさんが黙って聞いている。
ラウラさんは記録を取り、最後に尋ねた。
「討伐続行は不可能でしたか」
ミナは首を横に振った。
「不可能ではありませんでした」
会議室の空気が少し動く。
「入口の大型甲殻獣だけなら、倒せる可能性はありました。でも、奥に大量の魔物と毒泡袋があります。戦闘を続ければ遺跡が崩れ、毒が排水路へ流れる危険がありました。私は撤退すべきだと判断しました」
ノエルさんがそこで口を開いた。
「妥当です」
短い言葉だった。
でも、重かった。
「攻撃魔術師なら、入口の敵を倒す判断をしたでしょう。あなたは、遺跡全体を危険源として見た」
ミナはノエルさんを見る。
「それは、評価ですか」
「評価です。同時に、分類不能な点でもあります」
やっぱり刺す。
でも、今は少し笑えた。
ラウラさんが報告書を閉じる。
「討伐未完了として記録します。ただし、崩壊遺跡の位置、魔物の規模、毒泡袋、排水路、撤退可能線の情報は極めて有用です。再討伐ではなく、封鎖と専門調査の準備に回します」
失敗ではない。
成功でもない。
でも、生きて次へつなげた。
ミナはようやく肩の力を抜いた。
同時に、報告書の端に書かれた自分の職業欄が目に入る。
補助魔術師、ミナ・リース。
その文字は、今日も残っている。
けれど、毒沼の奥から持ち帰ったものは、もうその名前だけでは説明できなかった。
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