第23話 毒沼の奥の遺跡
中規模討伐の朝、ミナたち四人は、前回封じた毒沼外縁の裂け目を越えて、さらに奥へ進んでいた。
青い布の目印は、もう背後にある。
採取路を汚していた小さな出入り口は泥と倒木で塞がれていたが、水面の泡は完全には消えていなかった。むしろ、細い泡の筋は沼の奥へ奥へと続き、まるで見えない糸で誘っているようだった。
「ここから先は、前回とは別物だね」
リタさんが小さく言った。
軽い声だったが、足は止まっている。草の倒れ方、泡の流れ、羽虫の高さ。全部を見てからでないと、一歩も踏み出さない。
ガイさんは大盾を背負い直していた。泥に沈む場所では盾を構えすぎない。前回、受けるより流す方がいいと知ったからだ。
セラさんは剣を抜いていない。
抜きたそうにはしている。
ものすごくしている。
でも、まだ抜いていない。
それだけで、ミナは少しだけ安心した。
「ミナさん、ここは」
セラさんが踏み出す前に聞く。
ミナは水面を見る。泡は緑がかっているが、前回より粒が大きい。足元の毒ではなく、もっと深い場所から押し上げられている泡だ。
「右の草は踏まないでください。根が浮いています。左の石まで、足を置く場所を一つずつ選びます」
「はい」
セラさんは素直に頷いた。
信じてくれる。
そのことが嬉しい。
同時に、怖い。
みんながミナの判断を信じるほど、補助魔術師という木札は重くなる。
******
沼の奥へ進むほど、足元の感触が変わった。
泥ではない。
石だ。
水に沈んだ石畳が、草と泥の下からところどころ顔を出している。まっすぐ並ぶはずの石は斜めにずれ、割れ目には毒草が入り込み、古い溝には濁った水がゆっくり流れていた。
さらに進むと、半分折れた柱が見えた。
蔦に巻かれ、毒膜に濡れ、上部だけが水面から突き出している。石の表面には、もう読めない文字のような彫り跡があった。
「遺跡、ですね」
セラさんが息を呑む。
「沼じゃなくて、遺跡が沈んでるんだ」
リタさんの声から軽さが消えた。
ガイさんが周囲を見回す。
「足場は固いのか」
「見えるところだけです」
ミナはすぐ答えた。
「石の下が空洞になっています。強く踏むと割れるかもしれません。盾で受ける音も危険です」
「音もか」
「はい。崩れている場所が多いです。振動で石が動けば、毒を含んだ水が噴く可能性があります」
言ってから、ミナは自分の声が少し早くなっていることに気づいた。
毒沼より厄介だ。
毒だけなら流れを見ればいい。
足場だけなら固い場所を選べばいい。
でもここは、毒と足場と崩落が一緒にいる。
リタさんが前方を指した。
「あれ、橋?」
水面から、低い石橋が半分だけ出ていた。橋というより、崩れた通路だ。向こう側には階段の残骸があり、その奥に黒い穴が開いている。
遺跡の入口。
その穴から、緑の泡がゆっくり浮かんでいた。
石橋の横には、細い溝が走っている。
最初はただの割れ目に見えた。けれど、よく見ると石で縁取られている。古い排水路だ。水は止まっていない。濁りながらも、ほんの少しずつ南へ流れている。
「これ、まだ生きてるね」
リタさんがしゃがみ込み、試験紙を水面に近づけた。
紙の端が、じわりと緑に染まる。
「毒あり。薄いけど、流れてる」
セラさんが不安そうに水路を見た。
「南って、街の方角ですか」
「直接つながっているかはわかりません」
ミナは答えた。
でも、わからないから安全、とは言えなかった。
古い水路は厄介だ。地図に残っていない。途中で塞がっているかもしれないし、思わぬ場所へ抜けているかもしれない。毒は人の道を選ばない。低い方へ、流れやすい方へ、静かに進む。
ミナは喉の奥が少し苦くなるのを感じた。
ここで何かを壊せば、毒はこの場だけで終わらないかもしれない。
ミナの背筋が、湿気とは別の冷たさで強張った。
前回の泥の裂け目とは違う。
ここは、出入り口ではない。
奥へつながる口だ。
「ミナ」
ガイさんが低く呼んだ。
「どう進む」
どう受ける、ではない。
どう倒す、でもない。
どう進む。
その問いに、ミナの胸がぎゅっとなった。
ミナの判断が、戦いの前に置かれている。
逃げたい気持ちはある。
でも、ここで黙れば、誰かが一歩先に沈む。
「遺跡の中には入りません」
ミナは言った。
セラさんが少し目を見開く。
「でも、討伐対象は奥に」
「確認だけです。入口周辺の甲殻獣を倒すか追い払い、内部の規模を見ます。石橋の向こう側を撤退線にしません。撤退線はこの手前、崩れていない石畳までです」
リタさんが頷く。
「逃げる線を、遺跡の外に置くわけね」
「はい。中に入ってから撤退を決めると遅いです」
ガイさんは短く答えた。
「わかった」
セラさんは剣の柄を握ったまま、少しだけ唇を噛む。
「わかりました。石橋の向こうへは、勝手に行きません」
その返事は悔しそうだった。
でも、止まってくれた。
ミナは頷く。
「ありがとうございます」
「お礼を言われると、ちょっと飛び出しにくいです」
「では、毎回言います」
「それはそれで困ります」
リタさんが小さく笑った。
その一瞬だけ、湿った空気が軽くなる。
直後、石橋の向こうで水が割れた。
黒い殻。
太いハサミ。
毒草をまとった脚。
大型の甲殻獣が、崩れた階段の影から這い出してきた。
******
一撃目は、音が怖かった。
甲殻獣のハサミが横から振られる。ガイさんが盾を出す。いつもなら金属音で済む衝撃が、今日は石橋の下へ響いた。
ごん、と鈍い音。
足元の石が、小さく鳴る。
「ガイさん、受け切らないでください。音を逃がして」
「音を逃がす?」
「盾を立てすぎないで。ハサミを上へ滑らせます」
ガイさんは一瞬だけ眉を動かし、それでも従った。
次の一撃。
盾の面を斜めにし、押し返さず、上へ流す。ハサミは盾を擦って跳ね、石橋ではなく横の水面を叩いた。
毒泡が散る。
リタさんが叫ぶ。
「泡、右! 割れる前に下がって!」
セラさんが石畳の上から踏み込む。
「ここなら!」
「一歩だけ!」
ミナの声に、セラさんの足が止まる。
剣は甲殻獣の脚の継ぎ目を打った。深くはない。けれど、向きを変えるには十分だった。
セラさんはすぐ戻る。
その直後、彼女が二歩目に選びかけていた石が、内側から割れた。
黒い水が噴き上がる。
セラさんの顔から血の気が引いた。
「今の」
「石の下が空洞です。踏み抜いたら、足ごと持っていかれます」
「……はい」
返事が小さくなる。
でも、剣先は下がっていない。
リタさんの矢が飛ぶ。甲殻獣の目元をかすめ、怒らせる。大型は石橋から少し外れた泥の方へ体を向けた。
倒せる。
ミナはそう判断した。
大型一体なら。
この入口だけなら。
ガイさんの膝はまだもつ。セラさんの足首もぎりぎり温まっていない。リタさんの集中も切れていない。
今なら、押し切れる。
その時、遺跡の奥で、こつん、と石が落ちる音がした。
小さな音だった。
なのに、ミナの背中が冷たくなった。
階段の奥。
黒い穴の中。
いくつもの小さな光が動いた。
目ではない。
毒泡を溜めた薄い膜が、光を反射している。
その下から、小型の甲殻獣が這い出してきた。
一体。
二体。
数える前に、次が来る。
脚のない泥蛇のような魔物もいる。苔を背負った虫のようなものもいる。どれも大きくはない。けれど、全部が毒を含んだ水をまとっている。
さらに奥の壁には、丸く膨らんだ袋がいくつも張り付いていた。
透けた膜の中で、緑の液体が脈を打っている。
毒泡袋。
破れば、どうなるか。
考えたくなくても、わかる。
リタさんが低く言った。
「これ、一体の巣じゃない」
ミナは頷く。
喉が乾く。
湿地なのに。
「遺跡全体が、巣になっています」
石橋の下で、水が動く。
古い溝を、毒を含んだ水が南へ流れている。細い流れだが、塞がれていない。遺跡の排水路が、まだどこかへつながっている。
ここで暴れれば、毒泡袋が破れる。
石が崩れる。
水路へ流れる。
それがどこまで行くか、今はわからない。
セラさんが前へ出かけた。
「入口を塞げば」
「止まってください」
ミナの声は鋭かった。
セラさんの足が止まる。
「でも、今なら」
「今だからです。奥を刺激したら、毒が流れます」
ガイさんが大型のハサミを流しながら叫ぶ。
「ミナ、判断は」
判断。
討伐か。
封鎖か。
撤退か。
敵は倒せる。
でも、遺跡は倒せない。
毒泡袋も、古い排水路も、崩れた石橋も、ここにいる四人だけでは処理できない。
ミナは全員を見る。
ガイさんの膝。
セラさんの足首。
リタさんの目。
毒の流れ。
崩れかけた石。
帰る道。
全部が、同じ方向を指していた。
討伐ではない。
生還と報告だ。
ミナは杖を握り直した。
言いたくない。
でも、言わなければ遅れる。
「撤退してください」
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