第20話 魔力病の部屋
エレナさんの診察を終えた直後、ミナとノエルさんは隣の小さな書斎へ移った。
壁一面に本が並び、机の上には魔術式の写しと、神殿の治療記録が積まれている。きっちり分類され、日付順に束ねられ、赤い紐で結ばれていた。
几帳面。
というより、必死。
ノエルさんがどれだけエレナさんを助けようとしてきたか、紙の山がそのまま語っている。
ミナは椅子に座った。
膝に置いた手が、まだ少し熱い。エレナさんの冷えた手を触っていたせいか、自分の体温がはっきりわかる。
「治療方針を聞かせてください」
ノエルさんは向かいに座るなり、そう言った。
早い。
でも急かしているわけではない。必死に整えているだけだ。
ミナは机の上の紙を一枚引き寄せた。魔力循環の図。神殿が描いたものは、きれいな線で全身を巡っている。
きれいすぎる。
エレナさんの体の中は、こんなに整っていなかった。
「最初に、条件を決めたいです」
「条件」
「はい」
ミナは指を一本立てた。
「一度で完治は狙いません」
ノエルさんの目が少しだけ沈む。
期待を削る言葉だ。
でも、削らなければ危ない。
「エレナさんの流れは、長い時間をかけて今の形になっています。いきなり全部を変えると、体がついていけないかもしれません」
「発作を止めるための一時調整から、ということですね」
「はい。まずは逆流の勢いを弱める。戻る魔力を無理に消すのではなく、正常な道へ逃がす。体が慣れるかを見ます」
ミナは二本目の指を立てる。
「エレナさん本人に、危険を説明します」
「もちろんです」
「もちろん、で終わらせないでください」
思ったより強い声が出た。
ノエルさんが少し目を見開く。
ミナも自分で驚いた。
けれど、引っ込める気はなかった。
「エレナさんは、患者です。でも、治療されるだけの人ではありません。痛いか、怖いか、やめたいかを決めるのは本人です」
ノエルさんはしばらく黙った。
反論はしない。
ただ、胸の中で何かを飲み込んでいる顔だった。
「……私は、兄として先回りしすぎるところがあります」
「わかります」
「わかるのですか」
「さっき、すごくわかりやすかったです」
ノエルさんが眼鏡の位置を直した。
少し気まずそうだった。
この人でも、こういう顔をする。
ミナは三本目の指を立てた。
「治療記録を改ざんしません」
空気が変わった。
ノエルさんの表情から、気まずさが消える。
「それは、神殿に知られるということです」
「はい」
「エレナの症例は、セヴラン司祭の管理下にあります。彼は神殿内でも治癒権限に厳しい。記録にあなたの術式痕跡が残れば、必ず確認されます」
セヴラン司祭。
名前の響きだけで、硬そうな人だと思った。
いや、硬そうな名前というものはないかもしれない。でも、ある。たぶんある。
ノエルさんによれば、セヴラン司祭は腕の悪い治癒師ではないらしい。
むしろ逆だ。
記録を読み、手順を守り、危険な術式を嫌う。神殿の規則に厳しいが、その厳しさで守られた患者も多いという。
だからこそ、怖い。
悪意のある人なら、怒ればいい。間違っていると叫べばいい。
でも、正しい規則で正しく止められた時、ミナはどう答えればいいのだろう。
エレナさんの逆流を見ました。
治せるかもしれないと思いました。
だから、補助魔術師のまま手を伸ばしました。
その説明は、神殿の机の上でどれだけ通じるのか。
ミナにはわからない。
わからないまま、明日の治療へ進むしかなかった。
ミナは変なところで少しだけ現実逃避しかけて、すぐ戻った。
「それでも、記録は残します」
「あなたの登録が問題になります」
「わかっています」
「本当に?」
ノエルさんの声が低くなった。
「あなたは今、補助魔術師として登録されています。神殿管理の患者に、治癒式を土台にした改造術式を使う。記録が残れば、ただの職業確認では済まない」
怖い。
当たり前だ。
ミナは怖かった。
手のひらが汗ばむ。
でも、ここで記録を消す方がもっと怖い。
「私は、嘘をついています」
言葉にすると、少し苦い。
「だからこそ、治療そのものでは嘘を重ねたくありません」
ノエルさんが黙る。
ミナは続けた。
「エレナさんの体に何をしたのか。どこまで変えて、何を変えなかったのか。何かあった時、次に診る人がわからないと困ります」
治療記録は、自分を守るためだけの紙ではない。
次に患者を守るための道しるべだ。
ミナの師匠は、そう教えた。
汚い字で書かれた記録でも、命をつなぐことがある。逆に、きれいに隠された空白は人を傷つける。
「ノエルさん。私は怖いです」
「はい」
「でも、怖いから記録を消すなら、私はエレナさんを診ない方がいいと思います」
言い切ると、喉が乾いた。
ノエルさんは目を伏せる。
長い沈黙だった。
窓の外で馬車が通る音がした。遠く、子どもの笑い声も聞こえる。エレナさんは、その外へ出たいのだろう。
ノエルさんが顔を上げた。
「わかりました。記録は残します。改ざんもしません」
「ありがとうございます」
「ただし、表現は正確に」
「もちろんです」
「あなたが補助魔術師であるかのように偽装する記録は残しません」
ミナは胸を押さえられたような気がした。
厳しい。
けれど、それでいい。
「はい」
******
エレナさんに説明するため、三人でもう一度寝室へ戻った。
エレナさんはベッドの上で本を開いていた。さっき机に置かれていた押し花の栞が、今は膝の上にある。
兄を見るなり、少しむっとした顔をした。
「兄さま、私に内緒で怖い話をしましたね」
ノエルさんが一瞬止まった。
「怖い話ではありません」
「兄さまがそう言う時は、だいたい怖い話です」
鋭い。
リタさんと会わせたら、二人でノエルさんを困らせそうだ。
いや、今は想像している場合ではない。
ミナはベッド脇の椅子に座った。
「エレナさん。治療について説明します」
「はい」
エレナさんは本を閉じた。
ふざけた空気が、すっと消える。
十四歳の少女の顔から、治療を受け続けてきた患者の顔になる。その切り替わりが早くて、ミナは少し胸が痛くなった。
「まず、今日すぐに全部治すことはできません」
「はい」
エレナさんは頷いた。
期待していなかったわけではないだろう。
でも、がっかりを飲み込むのが上手い。
上手すぎる。
「最初は、発作を弱くするための一時調整をします。逆流している魔力の勢いを弱めて、別の道へ少し流します」
「別の道」
「体にある正常な流れです。新しい穴を開けるわけではありません」
エレナさんは真剣に聞いている。
ノエルさんも横で黙っている。口を挟みたいのを我慢している顔だ。わかりやすい。
「危険はありますか」
エレナさんが尋ねた。
ミナは頷く。
「あります。流れを変える途中で、気分が悪くなるかもしれません。体が熱く感じたり、逆に冷えたり、胸が苦しくなるかもしれません。その時はすぐ止めます」
「止めたら、元に戻りますか」
「戻せる範囲だけ動かします」
「戻せないことは、しない?」
「しません」
ミナははっきり言った。
その言葉を一番聞きたかったのは、エレナさんかもしれない。
少女の肩が、少しだけ下がった。
「わかりました」
ノエルさんがそこで口を開きかけた。
エレナさんが先に言う。
「兄さまのためじゃなくて、私が決めます」
ノエルさんの口が閉じた。
エレナさんは、ミナを見た。
「私は、歩きたいです」
その声は細い。
でも、芯がある。
「兄さまが安心するためじゃなくて、神殿の人に良かったですねと言われるためでもなくて。私が、自分で歩きたいんです。南門まで行って、揚げ菓子を買って、帰り道で半分食べたい」
「半分」
「全部食べたら夕食が入らなくなるので」
真面目だ。
とても真面目な食欲だった。
ミナは思わず笑いそうになり、でも笑ったら泣きそうで、唇を結んだ。
「わかりました」
エレナさんの願いは、大きな奇跡ではなかった。
街を歩く。
菓子を買う。
帰り道で食べる。
そんな普通のことが、今は遠い。
だから、遠いままにしたくない。
ミナは杖を膝に置いた。
師匠の声が、昔の治療室の匂いと一緒によみがえる。
魔法式は石板ではない。
相手の体に合わせて縫い直せ。
あの時のミナは、意味をわかったつもりでいた。
今なら、少し違う。
石板ではないから、勝手に削っていいわけではない。
縫い直すなら、布の持ち主に見せなければならない。
どこを切るのか。
どこを残すのか。
どこからなら、また歩けるのか。
「治療は明日の午前にしましょう」
ミナは言った。
「今日の流れを記録して、明日の体調を見てから始めます」
エレナさんが頷く。
ノエルさんも、少し遅れて頷いた。
部屋の空気が決まる。
怖さは消えない。
むしろ濃くなった。
でも、怖さの中に手順ができた。
それだけで、人は少し前に進める。
部屋を出る時、ミナはもう一度エレナさんの魔力を見た。
胸の奥で、流れが戻っている。
小さな逆流。
でも、完全に閉じてはいない。
まだ道はある。
細くて、曲がっていて、見落とされてきた道。
明日、そこへ手を伸ばす。
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