第19話 ノエルの妹
ノエルさんの家の寝室で、ミナが診察を始めた時、眠っていた少女のまつげがかすかに震えた。
ミナは反射的に指を離しかけて、ぎりぎりで止めた。急に触れ方を変えると、魔力の流れが乱れることがある。
触れたまま、力は入れない。
見る。
押さない。
治そうとしない。
まず、見る。
師匠に何度も言われたことを、心の中で一つずつ並べる。
エレナの魔力は、細い川みたいだった。
澄んでいる。汚れているわけではない。腐っているわけでも、呪いに濁っているわけでもない。
ただ、流れるべき道の途中に、見えない折り目がある。
そこへ来るたび、魔力が引き返す。
引き返した魔力は胸の奥でぶつかり、熱を作る。けれど手足には届かない。だから体温が落ちる。治癒をかければ一時的に水量が増えて、折り目を越えたように見える。でも、流れが落ち着くと、また同じ場所で戻ってしまう。
ミナはゆっくり息を吐いた。
「ミナさん」
ノエルさんの声が少し硬い。
「どう見えますか」
「流れが弱いんじゃありません」
言葉にしながら、ミナ自身も整理する。
「戻ってきてはいけない場所へ、戻っています」
ノエルさんが息を止めたのがわかった。
部屋の暖炉が、小さく音を立てる。
エレナはまだ眠っている。けれど、指先は冷たい。眠っているから穏やかに見えるだけで、体の中ではずっと小さな衝突が続いている。
「逆流、ですか」
「たぶん。全部ではありません。一部だけです。胸の奥から左腕、それから首の後ろにかけて、流れが折れて戻っています」
「神殿の記録では、先天的な循環不全と」
「不全ではあります。でも、足りないというより、戻ってしまう」
ミナはエレナの手にもう片方の手を添えた。
冷えが強い。指先だけではない。手首の内側、肘の手前、肩の奥。流れの届かない場所が、薄く眠っている。
「治癒魔術で一時的に楽になる理由も、たぶんそれです。強い治癒を入れると、流れの量が増えます。その間だけ、折れ目を越える魔力がある。でも根本の形が変わっていないから、時間が経つとまた戻ります」
ノエルさんは黙っていた。
いつものようにすぐ分析を返してこない。
たぶん、兄の方が前に出ている。
「補助魔術で悪化するのは」
「押し上げるからです」
ミナは小さく頷いた。
「補助で循環を強くすると、逆流している場所にも勢いがつきます。流れを増やすほど、戻る力も強くなる。だから苦しくなる」
言いながら、ミナの胸も苦しくなった。
間違いではない治療が、届かない。
届かないだけならまだいい。善意で押した力が、苦しみを強くすることもある。
治癒師は、そこが怖い。
何かをしたい気持ちと、何かをしてはいけない事実が、いつも同じ場所に立っている。
「……兄さま」
小さな声がした。
ミナは手を止める。
エレナの目が、少し開いていた。
薄い青の瞳。
眠りから戻ったばかりなのに、こちらを見ようとしている。
「起こしてしまいましたか。すみません」
ミナが慌てて言うと、エレナはゆるく首を横に振った。
「大丈夫です。知らない人の声がしたので、ちょっとだけ」
声は弱い。
でも、思ったより明るい。
病人らしく振る舞うことに慣れた明るさではなく、病気に負けすぎないよう自分で灯している明るさだ。
ノエルさんがベッド脇へ寄った。
「エレナ、こちらはミナ・リースさんだ。君の症状を診てもらっている」
「神殿の方ですか?」
エレナが不思議そうに尋ねる。
ミナの心臓が跳ねた。
神殿の方。
治癒師。
違う、と言うのも変だ。
はい、と言うのは嘘だ。
「私は、冒険者です」
結局、そこへ逃げた。
「少し、治癒と支援の両方に関わる術を使います」
説明としては曖昧だ。
でも、完全な嘘ではない。
ノエルさんが横で何も言わないのが、少しありがたくて、少し痛かった。
エレナは目を丸くした。
「冒険者さんなんですか」
「はい」
「じゃあ、外の話を知っていますか。南門の市で、甘い揚げ菓子が売っているって本当ですか」
突然の質問に、ミナは瞬きをした。
「えっと……たぶん、本当です。リタさんがこの前、三本買って二本を歩きながら食べていました」
「三本買って二本」
エレナが小さく笑った。
「一本は?」
「セラさんに取られました」
「仲がいいんですね」
「たぶん、仲はいいです。たぶん」
ミナが少しだけ困った顔をすると、エレナはまた笑った。
その笑い声は、部屋の薬草の匂いを少し薄くした。
ノエルさんの肩からも、ほんの少し力が抜ける。
この子は、ただの症例ではない。
甘い菓子の話を聞きたがる十四歳の少女だ。
その当たり前が、ミナの中の怖さを別の形に変えた。
失敗したくない。
では足りない。
この子が、自分の足で外へ出られる可能性を、少しでも増やしたい。
******
診察は、エレナに説明してから続けることになった。
ノエルさんは椅子を引き、ミナはベッド脇に座る。
エレナは上体を少し起こしていた。背中には厚いクッション。顔色はまだ薄いが、目はしっかりしている。
「痛いことをしますか?」
エレナが尋ねた。
怖がっていないふりをしている声だった。
ミナは首を横に振る。
「今はしません。手に触れて、魔力の流れを見ます。もし気分が悪くなったら、すぐ言ってください」
「兄さまが先に気づくと思います」
「それも頼もしいです。でも、エレナさん自身の言葉も必要です」
エレナは少し驚いた顔をした。
「私の?」
「はい。痛い場所や苦しい感じは、本人が一番正確です。周りがどれだけ見ていても、全部はわかりません」
言いながら、ミナは自分の胸にも同じことが刺さるのを感じた。
周りに言わなければ、危険は測れない。
ノエルさんが言ったことと同じだ。
治療も、仲間との依頼も、根っこはつながっている。
エレナは少し考えてから頷いた。
「わかりました。ちゃんと言います」
「お願いします」
ミナはエレナの手を取った。
さっきより意識がはっきりしている分、魔力の反応も変わっている。眠っている時は細く揺れるだけだった流れが、今はところどころで跳ねた。
人の体は、気持ちにも反応する。
怖い、期待している、恥ずかしい、疲れた。
全部が少しずつ、魔力の色を変える。
ミナは流れを追った。
胸の奥。左肩。腕。指先。
戻る。
首の後ろ。背中。腰。
また戻る。
変な場所に、輪がある。
体は前へ流したがっているのに、魔法式の道筋だけが古い形で折れている。
先天的と言われた理由もわかる。
この折れ目は、最近できた傷ではない。成長する体に合わせて、昔の小さな歪みが大きくなったのだ。
「エレナさん」
「はい」
「発作の前、左の肩が重くなることはありますか」
エレナの目が見開かれた。
「あります」
ノエルさんがこちらを見る。
「神殿の記録には」
「書いていません。だって、体が冷えるのに比べたら、小さいことだから」
エレナは申し訳なさそうに言った。
ミナは首を横に振る。
「小さくありません。とても大事です」
「そうなんですか」
「はい。あと、首の後ろが熱くなることは?」
「あります。熱いのに、手は冷たくなります」
エレナの声が少し早くなった。
今まで誰にも拾われなかった感覚を、初めて言葉にできた時の早さだ。
「胸がぎゅっとなるのは、左側からですか」
「はい。左から、真ん中に戻ってくる感じ」
戻ってくる。
やはり。
ミナはノエルさんを見た。
「逆流しています。弱いから巡らないのではなく、戻る道ができてしまっている」
ノエルさんの顔から、感情が消えた。
無表情ではない。
感情が多すぎて、どれも表に出せなくなった顔だ。
「記録を、修正する必要があります」
「はい。ただ、神殿の診断を頭から否定するのは危険です。見え方が違っただけかもしれません」
「あなたには、なぜ見えるのですか」
当然の問いだった。
ミナはすぐには答えられない。
補助魔術師だから。
それでは足りない。
ヒーラーだから。
それだけでも足りない。
痛みを見てきたから。
毒を、疲労を、呼吸を、体温を、戻らない足を、震える手を、ずっと見てきたから。
「たぶん、私は」
言葉が途中で止まった。
エレナがミナの手を弱く握る。
「ミナさん」
「はい」
「治るんですか?」
部屋の音が消えた。
暖炉の小さな火の音も、ノエルさんの息も、遠くなる。
治る。
その二文字は、軽く言えば薬になる。
でも、効かない薬は毒になる。
ミナはエレナの手を握り返した。
「今すぐ、治るとは言えません」
エレナの目が少し揺れた。
ノエルさんも、何も言わない。
ミナは続けた。
「でも、楽にできる可能性はあります。発作を弱くする方法も、探せると思います。完全に治すと約束はできません。でも、何もできないとは思いません」
エレナはしばらくミナを見つめていた。
やがて、ゆっくり頷く。
「約束じゃなくても、嬉しいです」
その言葉で、ミナの胸が詰まった。
治せると言えなかった。
それでも、この子は嬉しいと言った。
なら、次に必要なのは希望ではない。
手順だ。
期待だけで人は救えない。
でも、手順のない希望は、もっと人を傷つける。
ミナはエレナの手からそっと指を離した。
「次は、治療の準備をします」
「今日、ですか」
「今日は診察だけです。焦ると、流れを悪くするかもしれません」
エレナは少し残念そうにした。
けれど、ちゃんと頷いた。
「わかりました」
ノエルさんが立ち上がる。
「ミナさん、別室で話を」
「はい」
部屋を出る前に、エレナがもう一度声をかけた。
「ミナさん」
「はい」
「南門の揚げ菓子、いつか食べたいです」
ミナは一瞬だけ迷って、それから笑った。
「リタさんに取られないように、四本買いましょう」
エレナが声を立てずに笑う。
その笑顔を見て、ミナは思った。
治したい。
言葉にすると重すぎるから、胸の中だけで。
治せるとは言えない。
でも、見なかったことにはできない。
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