第18話 黙る代わりの依頼
その日の検証室で、ノエルさんがミナに差し出した封筒は、軽かった。
けれど受け取った瞬間、ミナの手首は少し沈んだ。
中に入っているのは紙だ。たぶん、数枚の診療記録。重さで言えば大したことはない。
それでも、神殿の印章が押された白い封筒には、人の命が乗っている気がした。
「開けても?」
「お願いします」
ノエルさんの返事は短かった。
ミナは封をほどく。中には、整った字で書かれた診療記録と、魔力循環の図が入っていた。
名前。
エレナ・アスター。
年齢、十四。
症状、魔力循環不全。発作時の体温低下。呼吸浅化。四肢の冷感。治癒魔術による一時改善あり。補助魔術による循環促進は症状悪化の可能性。
ミナは二枚目をめくった。
経過は長い。
幼い頃から症状があり、成長期に悪化。神殿で定期治療を受けているが、根治には至らず。最近は発作間隔が短くなっている。
文字は冷静だった。
でも、冷静な文字ほど怖い時がある。
苦しみが、きれいに整えられてしまうからだ。
「妹です」
ノエルさんが言った。
ミナは顔を上げる。
ノエルさんの表情はほとんど変わらない。けれど、机の上に置かれた右手だけが、ほんのわずかに強く握られていた。
「私の妹、エレナです」
「……妹さん」
「ええ」
そこで初めて、検証室の空気が仕事ではなくなった。
術式鑑定でも、職業登録の確認でもない。
兄が、妹を助けたいと言っている。
ただそれだけの部屋になった。
「神殿では」
「長期管理です」
ノエルさんの返事は、わずかに早かった。
何度も同じ説明を受け、何度も同じ結論に戻された人の速さだった。
「原因の断定は避けています。先天的な循環不全。体質による魔力停滞。成長に伴う負荷増大。言葉は変わりますが、結論は同じです。治らない。悪化を遅らせる」
ミナは記録に目を落とした。
治癒魔術で一時的に落ち着く。
補助魔術で悪化する。
普通なら、魔力が足りない症状には補助で循環を押し上げる。弱った部分には治癒を入れる。神殿の処置は、間違いではない。
間違いではないのに、届いていない。
「見てみないと、わかりません」
「わかっています」
「治せるとも言えません」
「それも、わかっています」
ノエルさんは頷いた。
理性的な人だ。
たぶん、ミナよりずっと多くの文献を読み、術式を検証し、失敗の可能性を数えてきた。
それでも、ここにいる。
ミナの嘘を見抜いたうえで、依頼している。
「あなたの術式は、治癒と補助の境界を越えている。毒沼での処置を見て、可能性があると思いました」
「可能性だけで、妹さんを」
「可能性以外は、もう試しました」
その言葉は静かだった。
静かすぎて、逆に重い。
ミナは封筒の端を指でなぞった。
「どうして私に」
「あなたは、乱れを外から押し上げない。内側の流れを読む。毒沼でリタさんに行った処置は、毒を消すより先に、広がり方を変えた。エレナに必要なのは、おそらくそれです」
ノエルさんの目はまっすぐだった。
「だから、診てほしい」
ミナは黙った。
この依頼を受ければ、神殿の領域に入る。
補助魔術師として登録したまま、治癒に近い処置をする。それも、神殿が長く管理している患者に。
危険だ。
とても危険だ。
でも、危険だからといって、目の前の苦しみが軽くなるわけではない。
「一つ、確認させてください」
「どうぞ」
「これは、ノエルさんの依頼ですか。それとも、私の登録について黙る代わりの取引ですか」
言ってから、胸が痛くなった。
疑いたいわけではない。
でも、確かめなければならなかった。
ノエルさんは目を閉じた。
短い沈黙。
それから、ゆっくり開く。
「両方です」
正直な答えだった。
ミナは息を呑む。
「あなたの登録について、今は黙ります。その代わり、妹を診てください」
その言い方は脅しではなかった。
でも、取引だった。
きれいな善意ではない。弱みを握った人間が、必要なものを差し出している。
ミナの胸の中で、嫌なものが揺れた。
自分の嘘が、誰かの治療依頼の値札になっている。
それがたまらなく嫌だった。
「……ずるいです」
「はい」
ノエルさんは否定しなかった。
「ずるい頼み方です。私は兄として、冷静ではありません」
あっさり認められると、怒る場所がなくなる。
ミナは少し困った。
困って、視線を落とした。
診療記録の端に、小さな字があった。
発作時、本人意識あり。
怖いだろうな、と思った。
体が冷える。息が浅くなる。周りの大人が慌てる。治療を受けても、また戻ってくる。
それを十四歳の子が、何度も。
ミナの中で、答えはもう決まっていた。
決まっているのに、言うのが怖いだけだ。
******
「診るだけです」
ミナはそう言った。
ノエルさんの手が、ほんの少し動いた。
「診て、できることとできないことを言います。一度で治すとは言いません。神殿の診断を否定するためにも行きません」
「それで構いません」
「それから」
ミナは封筒を机に置いた。
指先はまだ冷たい。
「私の登録について黙ることと、妹さんを診ることを、あまりきれいにつなげないでください」
ノエルさんが目を瞬かせた。
ミナは自分でも意外なほど、はっきり言葉を続けた。
「私は嘘をついています。そこは私が悪いです。でも、エレナさんを診るなら、患者さんとして診ます。黙ってもらうための代金みたいにしたくありません」
言い終えてから、少し震えた。
こんなことを言える立場ではないのかもしれない。
でも、治療まで嘘と取引で汚したくなかった。
ノエルさんは、しばらくミナを見ていた。
「わかりました」
やがて、そう言った。
「私の頼み方が悪かった。エレナを、患者として診てください。あなたの登録については、私が今すぐ告発しない理由とは別に扱います」
「別に、できますか」
「簡単ではありません」
また正直だ。
「ですが、努力します」
ミナは少しだけ息を吐いた。
努力します、という言葉は万能ではない。
でも、万能ではないから信じられた。
「妹さんは、今どこに」
「自宅です。神殿の治療室ではありません。発作が落ち着いている時間に案内します」
「ご本人には、私が何者か」
「補助魔術師として来るとは伝えません」
ノエルさんは即答した。
「ですが、治癒師としても紹介しません。まだあなた自身が、その名を選べていない」
痛いところを突かれた。
ミナは小さく肩をすくめる。
「ノエルさん、たまにすごく刺しますね」
「必要なら」
「できれば必要最低限でお願いします」
「検討します」
検討。
たぶん、しない。
ミナは少しだけ笑ってしまった。笑える場面ではないのに、息が詰まりすぎて、少し空気を逃がしたくなったのだ。
ノエルさんも、ほんのわずかに口元を緩めた。
それは、すぐ消えた。
けれど確かに、兄の顔だった。
******
ノエルさんの家は、ギルドから少し離れた静かな通りにあった。
魔術師組合に所属する人らしく、玄関には防護の刻印がある。派手ではない。むしろ見落としそうなほど細い線で、扉の枠に沿って流れていた。
ミナが近づくと、その線が淡く光る。
ノエルさんが手をかざした。
「失礼。エレナの体調のため、外部魔力を少し濾過しています」
「外の魔力にも反応するんですか」
「強いものには。最近は、人混みの後に発作が出やすい」
それは、かなり厄介だ。
ミナは玄関で深く息を吸った。
家の中は薬草の匂いがした。神殿の治療室ほど濃くはない。もっと生活に近い匂い。温めた布、湯、乾いた木。
奥の部屋へ案内される。
扉の前で、ノエルさんが一度立ち止まった。
「今は眠っています」
「はい」
「起こす必要があれば、起こしてください。診察に必要なら」
その声に、兄としての迷いが混ざっていた。
起こしたくない。
でも、必要なら起こしてほしい。
どちらも本音だ。
ミナは頷いた。
「まずは眠ったまま、流れを見ます」
扉が開く。
部屋は暖かかった。
窓辺に厚いカーテン。枕元に水差し。小さな机には、読みかけの本と、押し花の栞。
ベッドの上に、少女が眠っていた。
白に近い金髪が頬にかかっている。顔色は薄い。けれど眉間に苦しみの皺はなく、今は穏やかに見えた。
ノエルさんの妹。
エレナ・アスター。
ミナはベッド脇に膝をついた。
手をかざす。
触れる前に、魔力の流れを見る。
薄い光の糸が、体の奥でゆっくり巡っていた。
弱い。
けれど、ただ弱いだけではない。
胸元から左腕へ向かう流れが、途中で細く折れている。そこから先に進むはずの魔力が、戻っている。
戻ってきてはいけない場所へ。
逆向きに。
ミナの喉が、勝手に乾いた。
「ミナさん?」
ノエルさんの声がする。
ミナはエレナの手首の上に、指をそっと置いた。
冷たい。
でも、冷えの奥で魔力だけが熱を持っている。
流れがぶつかっている。
詰まりではない。
不足でもない。
体の中に、小さな逆流の輪ができている。
「これ……」
ミナは思わず呟いた。
「普通の魔力病じゃありません」
******
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