第17話 嘘を責めているのではありません
ノエルに呼び止められた直後、ミナはギルド検証室で、細い窓から差す光を見ていた。
それでも、ノエル・アスターの前に広げられた報告書だけは、やけにはっきり見える。
毒沼依頼。
補助魔術師ミナ・リース。
毒拡散抑制、疲労軽減、足場適応支援。
文字だけ見れば、立派な成果だ。ガイさんたちが無事に帰れたことも、依頼を成功に近い形で終えられたことも、本当だ。
けれど、ノエルさんはそこに赤い線を引いていた。
褒めるための線ではない。
疑うための線だ。
「あなたは、自分の術をどこまで説明できますか」
さっきの問いが、まだ検証室に残っている。
ミナは膝の上で両手を握った。
「……仲間を守るために、必要な支援をしています」
「それは目的です」
ノエルさんは即座に返した。
声は穏やかだ。けれど、曖昧な場所を許してくれない。
「私が聞いているのは、目的ではありません。術式の性質です。どの分類に属し、どの条件で効果が出て、どの条件で危険になるのか」
「危険、ですか」
「ええ」
ノエルさんは報告書を一枚めくった。
「まず、職業登録と実際の術式が一致していません」
紙が擦れる音がした。
「次に、あなたの術式は治癒式を土台にしています。治癒魔術であれば、神殿の管理領域に触れる可能性がある」
神殿。
その言葉で、ミナの指先が冷えた。
ヒーラーは神殿の認定を受ける。治癒の記録は、依頼よりも重く扱われる。命に触れる術だからだ。
だからこそ、追放された後のミナは、その名を使えなかった。
使いたくなかった。
「さらに、魔法式改造」
ノエルさんが三本目の指を立てる。
ミナは思わず息を止めた。
そこまで、見抜かれている。
「毒沼での毒拡散抑制は、単純な解毒ではありません。対象者の体内で広がる毒の道筋を一時的に細くし、影響の出る順序をずらしている。普通の補助魔術師は、そんなことをしません」
「……できない、ですか」
「できない、というより発想しない。補助魔術は外から押す術です。あなたの術は内側を縫い直している」
縫い直す。
その言葉で、師匠の声が胸の奥に触れた。
魔法式は石板ではない。
相手の体に合わせて縫い直せ。
昔は、それがヒーラーの基本だと思っていた。傷口は人によって違う。痛みの形も、魔力の癖も違う。だから、同じヒールを同じようにかけてはいけない。
けれど今、その当たり前は危険な技術として見られている。
ミナは喉の奥を小さく鳴らした。
「私は、失敗しないようにしています」
「それは、あなたがそう思っているだけです」
ノエルさんは厳しかった。
冷たくはない。
でも、優しさでごまかしてもくれない。
「魔法式改造は、成功している間は目立ちません。失敗した瞬間、何をどう直せばいいのか、周囲にはわからない。ガイ・ロックベルさんも、リタ・ベルさんも、セラ・ウィンさんも、あなたの支援を信じている。ですが、あなたが本当は何をしているのか知らない」
ガイさんの大きな背中が浮かんだ。
撤退だ、と迷わず言ってくれた声。
リタさんの軽口。セラさんのまっすぐな目。
あの人たちは、ミナを信じてくれている。
補助魔術師として。
そこに、嘘がある。
ミナは唇を噛みかけて、やめた。ここで傷を作っても、何も変わらない。
「私は……追放されたんです」
自分でも驚くほど小さな声だった。
ノエルさんは黙って聞いている。
「役立たずのヒーラーだって言われました。だから、またヒーラーだと名乗るのが怖くて。補助魔術師なら、少しは役に立てるかもしれないと思って」
「事情は理解できます」
ノエルさんはそう言った。
理解。
その言葉が、許しではないことくらい、ミナにもわかった。
「ですが、事情は危険を消しません」
やっぱり。
ミナは肩を小さく落とす。
「私は、嘘をついています」
「はい」
「告発、しますか」
聞きたくない。
でも聞かなければならない。
ノエルさんは、少しだけ目を伏せた。
「今すぐはしません」
「今すぐは」
「ええ。放置もしません」
きっぱりと言われた。
ミナの胃のあたりが縮む。
「嘘を責めているのではありません」
ノエルさんは、さっきと同じ言葉をもう一度置いた。
今度は、続きがあった。
「危険を測れないことを問題にしています」
検証室が静かになった。
外で誰かが廊下を歩く足音がする。遠い。まるで別の世界みたいだ。
ミナは木札を見下ろした。
補助魔術師、ミナ・リース。
この木札は、ミナを守ってくれた。ヒーラーと名乗れない自分に、仕事をくれた。新しい仲間の前に立つための、薄い盾になった。
でも、盾は人の目も遮る。
ガイさんたちは、ミナの本当の危険を知らない。
何ができるかを知らないだけではない。何ができないかも知らない。
もし戦場で、ミナが支えきれなかったら。
もし治癒式の改造が、逆に誰かの体を乱したら。
その時、仲間は何を警戒すればいいのか、何を止めればいいのか、きっとわからない。
ミナが説明していないから。
「……私、自分が怒られることばかり考えていました」
ぽつりとこぼれた。
「ヒーラーだと知られたら、また要らないって言われるんじゃないか。嘘つきだって言われるんじゃないか。そういうことばかり」
ノエルさんは急かさない。
「でも、本当は違うんですね。私が怖いだけじゃなくて、みんなに判断させていなかった」
認めると、胸が痛かった。
追放された時の言葉より静かで、それなのに深く刺さる。
「理解したなら、まずは一つ進みました」
ノエルさんは報告書を閉じた。
「一つ、ですか」
「一つです。理解は解決ではありません」
厳しい。
この人、たぶん悪い人ではない。
でも、逃げ道を全部きれいに片づける人だ。ミナがこっそり横を通ろうとしても、そこにはすでに椅子が置かれている。そんな感じがする。
少し腹が立つ。
腹が立てるくらいには、怖さが薄れた。
******
ノエルさんは棚から小さな板を取り出した。
魔術師が術式説明に使う簡易の刻印板だ。薄い金属板に、魔力を流すための細い溝が刻まれている。
「あなたの術を、既存分類に無理に押し込むと問題が起きます」
「問題、ですか」
「補助魔術として扱えば、内側への干渉を見落とす。治癒魔術として扱えば、戦場での予防的な支援を説明しきれない。神殿はおそらく後者で囲おうとしますが、それも乱暴です」
神殿に囲われる。
嫌な響きだった。
ミナは思わず背筋を伸ばす。
「私は、神殿に逆らいたいわけでは」
「逆らうかどうかではありません。分類が現実に追いついていないと言っています」
ノエルさんは刻印板に魔力を通した。
青白い線が、まっすぐ伸びる。
「補助魔術なら、こうです。対象に外側から力を足す」
別の溝に魔力が流れる。今度は細い輪ができた。
「治癒魔術なら、損傷した部分へ働きかける」
ノエルさんはそこで指を止める。
「あなたの術は、この二つの間を通る。まだ名前がない」
「名前がないものは、駄目なんですか」
「いいえ」
ノエルさんは即答した。
「分類名がないなら作ればいい。あなたの術は、そういう段階にあります」
ミナは目を瞬かせた。
怒られると思っていた。
正されると思っていた。
補助魔術師ではない。ヒーラーに戻れ。嘘をやめろ。そう言われると思っていた。
でもノエルさんは、違う場所を見ていた。
ミナの嘘ではなく。
ミナの術そのものを。
「作るって、そんな簡単に」
「簡単ではありません。だから記録と検証が必要です。あなたが隠し続ければ、誰も守れない。あなた自身も、あなたに支えられる人も」
ノエルさんの言葉は、刃物みたいに鋭くて、包帯みたいに必要だった。
痛い。
でも、無視するともっと悪くなる。
「では、どうすれば」
「少なくとも、あなたは自分の限界を言語化する必要があります。できること。できないこと。失敗時に起こりうること。仲間に共有すべき条件」
ミナは心の中で、ガイさんたちの顔を並べた。
ガイさんは、短く聞いてくれるだろう。
リタさんは、たぶん笑いながら一番痛いところを突く。
セラさんは、最初に驚いて、それから真剣に怒るかもしれない。
怒られるのは怖い。
でも、何も知らないまま戦わせる方がもっと怖い。
そんなこと、どうして今まで考えなかったのだろう。
いや、考えないようにしていたのだ。
木札の文字を見れば、少し息ができたから。
補助魔術師という嘘に、ミナ自身が救われていたから。
「ノエルさんは、どうしてそこまで言うんですか」
問いは、自然に出た。
ノエルさんが眉をわずかに動かす。
「どうして、とは」
「告発するだけなら、もっと簡単です。報告書に書いて、神殿に回して、私を検証にかければいい。それなのに、分類の話までしてくれるのは」
ノエルさんはすぐには答えなかった。
視線が、机の端へ落ちる。
そこには毒沼依頼の報告書とは別に、薄い封筒が一つ置かれていた。白い封筒。神殿の印章が押されている。
ミナはその封筒を見てしまった。
ノエルさんも、それに気づいた。
「私にも、既存分類では届かない症例に心当たりがあります」
声が少し変わった。
今までのような鑑定者の声ではない。
身内の痛みを、丁寧に紙で包んで差し出すような声だった。
「症例」
「ええ」
ノエルさんは封筒に触れかけて、やめた。
指先が、ほんの少しだけ迷った。
この人も迷うのだと、ミナはその時初めて思った。
「通常の治癒では一時的にしか改善しない。補助魔術で循環を押し上げると、かえって苦しむ。神殿は長期管理を勧めていますが、原因は特定できていない」
ミナの中で、ヒーラーの部分が反応した。
痛みの話を聞くと、体が先に動きたがる。悪い癖だ。いい癖でもある。
「どなたの症状ですか」
聞いた瞬間、ノエルさんの目が細くなった。
警戒ではない。
覚悟を測る目だった。
「まだ、依頼として受けると決めていないなら、聞かない方がいい」
「でも」
「あなたにはすでに、十分な危険があります」
その通りだった。
これ以上、神殿の治療領域に踏み込めば、嘘はもっと大きくなる。
わかっている。
わかっているのに、封筒から目を離せない。
誰かが苦しんでいる。
通常の治癒でも、補助でも届かない。
そんな症状があると言われて、聞かなかったことにできるほど、ミナは器用ではなかった。
ノエルさんは封筒を手に取った。
けれど、まだ差し出さない。
「ミナ・リースさん」
「はい」
「もし、通常の治癒でも補助でも届かない症状があるとしたら、あなたは見ますか」
答えは、怖い。
でも、怖いからこそ本物だった。
ミナは木札を握りしめる。
嘘でできた薄い盾の向こうで、ヒーラーだった自分が静かに顔を上げていた。
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