第16話 魔術師ノエル・アスター
毒沼依頼の報告後、ミナはギルドの検証室で、薬草と古い紙の匂いに包まれていた。
依頼報告に残った魔力痕跡や、使用された術式の記録を確認する部屋だ。普通の冒険者はあまり入らない。ミナも、呼び出されなければ一生近づかなかったかもしれない。
扉の前で、ミナは仮ではない木札を握りしめた。
補助魔術師、ミナ・リース。
もう何度も見た文字。
それなのに、検証室の前ではひどく頼りない。
「入ってください」
中から落ち着いた声がした。
ミナは扉を開ける。
室内には一人の青年がいた。年は二十代半ばくらい。銀灰色の髪を後ろで軽く束ね、細い眼鏡をかけている。机の上には、毒沼依頼の報告書が広げられていた。
指には魔術師組合の紋章入りの指輪。
ただのギルド職員ではない。
ミナの背筋が、自然に伸びた。
「ミナ・リースさんですね」
「はい」
「私はノエル・アスター。魔術師組合所属ですが、ギルドの術式鑑定にも協力しています」
ノエルは丁寧に名乗った。
声は冷たくない。けれど、柔らかくもない。必要な音だけを正確に置いていくような話し方だった。
「本日は、毒沼依頼の報告について確認があります」
「私の、支援ですか」
「ええ」
ノエルは報告書を指で押さえる。
「リタ・ベルさんへの毒拡散抑制。ガイ・ロックベルさんへの足場適応支援。セラ・ウィンさんへの負荷制限。どれも興味深い記録です」
興味深い。
その言い方が怖かった。
ミナは慎重に答える。
「補助魔術師として、必要な支援をしました」
「そう記録されています」
ノエルは顔を上げた。
薄い灰色の目が、ミナをまっすぐ見る。
「ですが、記録された魔力の流れは、通常の補助魔術とはかなり異なります」
心臓が、ひとつ大きく鳴った。
******
「通常の補助魔術は、対象の能力を外側から押し上げます」
ノエルは紙に簡単な線を引いた。
「力を足す。反応を速める。防御膜を張る。魔力の外枠から支える。もちろん流派によって違いはありますが、大枠はそうです」
「はい」
「あなたの術式は違う」
ペン先が、紙の中央へ入る。
「内側の乱れを整えている。毒の拡散を止めるだけでなく、血流や呼吸の反応を読んでいる。疲労軽減も、外から押し上げるのではなく、壊れかけた流れを元に戻している」
ミナは喉が乾くのを感じた。
まさにその通りだった。
正確すぎる。
「異常対応です」
言葉は、自分でも弱いと思った。
ノエルは責めるようには見えない。ただ、逃げ道を一つずつ確認している。
「異常対応。便利な表現ですね」
リタと同じことを言われた。
ミナは指先を握る。
「毒や疲労に対応する補助です」
「補助魔術で、毒の体内反応を読むのですか」
「……そういう支援も、あります」
「あるでしょう。ですが、あなたの術式は治癒式に近い」
ノエルは報告書を閉じた。
紙の音が小さく鳴る。
「いいえ。近い、ではありませんね」
ミナは息を止める。
ノエルは静かに告げた。
「あなたの術式は補助魔術ではありません。治癒式が土台です」
部屋の空気が止まった気がした。
ミナは何かを言おうとした。
支援です。
異常対応です。
補助魔術師です。
どの言葉も、喉の奥で崩れた。
ノエルの目は、もう答えを知っている。
嘘を重ねるほど、薄くなるだけだ。
「私は」
ヒーラーです。
言えない。
ここでも、まだ言えない。
ミナは視線を落とした。
「治癒魔術を、学んだことはあります」
「それだけでは説明できません」
ノエルは即座に言った。
「治癒魔術を学んだ補助魔術師なら、まだわかる。ですが、あなたは逆です。治癒式の中へ、補助式を縫い込んでいる」
師匠の言葉が頭をよぎる。
魔法式は石板ではない。相手の体に合わせて縫い直せ。
ミナはその教えの通りにしてきただけだ。
でも、それが本物の魔術師には異常に見える。
******
「告発、するんですか」
ミナの声は小さかった。
ノエルは少しだけ眉を動かす。
「告発?」
「職業登録が違うので」
「必要なら報告します」
淡々とした返事。
ミナの胸が冷える。
「ですが、今すぐそれをするつもりはありません」
「どうしてですか」
「あなたの術式が危険だからです」
ミナは顔を上げた。
褒められると思ったわけではない。けれど「危険」とはっきり言われると、体が固まる。
ノエルは続けた。
「危険というのは、悪いという意味ではありません。効果が細かく、分類が曖昧で、使用条件が本人の判断に大きく依存している。つまり、周囲が危険を測れない」
その言葉は、ミナの胸の奥に重く落ちた。
周囲が危険を測れない。
ガイたちは、ミナを信じてくれている。けれど、本当の能力を知らない。ミナがどこまでできて、どこからできないのか。何をすると危険なのか。どんな失敗が起こるのか。
知らないまま、依頼に出ている。
それは、ミナが説明していないからだ。
「私は、仲間を危険に」
「今のところ、あなたは仲間を救っています」
ノエルは遮った。
「だからこそ問題なのです。結果が良いほど、誰も確認しない。成功は疑問を眠らせる」
ミナは何も言えなかった。
成功するほど、嘘が深くなる。
第一部からずっと感じていたことを、ノエルは正確な言葉にした。
ノエルは報告書の余白を指で叩いた。
「たとえば、ガイ・ロックベルさんへの支援。あなたは足場に合わせて膝の負荷を逃がした。これは筋力強化ではありません」
「はい」
「セラ・ウィンさんへの支援も同じです。敏捷性を上げたのではなく、踏み込みの角度を制限している。補助魔術としては、むしろ能力を抑えています」
ミナは返事に詰まった。
確かに、そうだ。
強くするだけが支援ではない。動けすぎる人を、壊れない範囲に留めることもある。師匠はそれを「手綱」と呼んでいた。
でも、普通の補助魔術師は手綱をかけない。
「リタ・ベルさんへの毒処置は、さらに問題です」
ノエルの指が別の行へ移る。
「毒を中和したのではなく、拡散経路を一時的に狭めた。これは対象者の体内に直接干渉しています。治癒師でも、訓練を受けていなければ危険な処置です」
「訓練は、受けました」
思わず言ってしまった。
ノエルの目が、静かにこちらを向く。
しまった、と思った。
補助魔術師としては、あまりにも不自然な答えだ。
ノエルは追及しなかった。
追及しないことが、逆に怖かった。
「でしょうね」
それだけ言った。
ミナは膝の上の手を握る。
隠しているのに、隠れていない。
布をかぶったつもりで、足だけ全部見えているような気分だった。しかも相手は、その足跡から行き先まで読んでいる。
「ミナさん」
「はい」
「あなたの仲間は、あなたが攻撃魔術を使えないことを知っていますか」
ミナは息を止めた。
ガイさんは薄々知っているかもしれない。リタさんはほぼ疑っている。セラさんは、まだ期待している部分がある。
でも、ミナの口からはっきり言っていない。
「……全部は」
「では、戦場で火力が必要になった時、彼らは誤った期待を持つ可能性があります」
静かな指摘。
言い訳の入る隙がない。
「それだけではありません」
ノエルは続けた。
「あなたが治癒式を使っていると知らなければ、仲間は治療後の制限も理解できない。毒を抑えた直後に無理をすれば、抑えた経路が破綻するかもしれない。疲労を軽く見せれば、本人はまだ動けると誤解するかもしれない」
ミナの喉が詰まった。
思い当たることが、多すぎた。
楽にすることが、無理をさせることにつながる。
治すことで、危険を隠してしまう。
ヒーラーなら誰でも知っているはずの怖さを、ミナは補助魔術師という名前の陰で少しだけ見ないふりをしていた。
「治癒は、結果だけ見れば優しい術です」
ノエルは言う。
「ですが、優しい術ほど危険を隠す。あなたの支援は、その性質を持っています」
優しい術ほど危険を隠す。
その言葉は、毒より静かに胸へ回った。
思えば、ミナはずっとそうしてきた。
誰かの痛みを消し、息を整え、立てるようにしてきた。
でも、立てることと、進んでいいことは同じではない。
それを、今さら突きつけられている。
ノエルは椅子を引く。
「少し、話をしましょう」
「話」
「嘘を責めているのではありません」
その声は、初めて少しだけ柔らかかった。
「ただ、あなた自身がその嘘の危険を理解していないなら、いつか誰かを傷つけます」
ミナは木札を握りしめた。
補助魔術師、ミナ・リース。
その名前で救った人がいる。
その名前で得た居場所がある。
でも、その名前では測れない危険もある。
ノエルは机の上の報告書を整えた。
「ミナ・リースさん。あなたは、自分の術をどこまで説明できますか」
ミナは答えられない。
説明すれば、ヒーラーだと知られる。
説明しなければ、仲間は危険を測れない。
どちらも怖い。
ノエルは静かに待っている。
責めるためではなく、逃がさないために。
ミナは、初めて本物の魔術師の前で、自分の嘘がただの言い訳では済まなくなったことを知った。
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