第15話 治す前に止める
毒沼の外縁で、泥の裂け目から泡が上がった直後、沼蟹は思ったより速く動いた。
小型とはいえ、膝下ほどの高さがある。硬い甲殻を泥で汚し、左右の鋏をかちかち鳴らしながら、水面すれすれを滑るように進んでくる。
速い。
しかも、足場が悪い。
ガイが盾を構えた。
「受ける」
「受けないでください」
ミナの声は、思ったより鋭く出た。
ガイの足が止まる。
「受けない?」
「正面で止めると沈みます。斜めに流してください。右足はそこから動かさないで」
ガイは一瞬だけ戸惑った。
盾役にとって、受けるなという指示は難しいはずだ。彼は今まで、仲間を守るために自分が止めることを選んできた。
でも、沼地では違う。
止めるほど沈む。
踏ん張るほど帰れなくなる。
「わかった」
ガイは盾の角度を変えた。
沼蟹が突っ込む。盾に当たる。重い衝撃。けれど、ガイは正面から押し返さない。盾を斜めに滑らせ、力を横へ逃がす。
沼蟹が泥の上を転がった。
ガイの足は沈まない。
「なるほどな」
短い声。
それだけで、ミナは少し息をつけた。
セラが剣を抜いて前へ出る。
「行けます!」
「待って」
ミナはすぐ止めた。
セラの踏もうとしている場所は、草で隠れているが下が水だ。踏み込めば足首まで沈む。剣は届くかもしれない。でも、引き戻す時に遅れる。
「そこは沈みます。勝てても、戻れません」
「戻れない」
セラの顔が強張る。
その直後、沼蟹の一匹がその場所を通った。足元の草が割れ、泥水がぼこりと沈む。
セラは息を呑んだ。
「本当に沈んだ」
「はい。だから、左の根の上から」
「はい!」
今度の返事は、ちゃんと止まってからだった。
******
リタは低い姿勢で沼蟹の横へ回っていた。
「こいつら、毒泡吐くよ」
彼女の声と同時に、沼蟹の口元から緑がかった泡が膨らんだ。
風下は右。
リタがいる。
「リタさん、下がって!」
ミナの声より少し早く、リタは身をひねった。泡はかすめただけだったが、右手の手袋に少し付いた。
「うわ、嫌な感じ」
「手袋を外してください。素手で触らないで」
「はいはい」
リタは軽口を返しながらも、すぐ手袋を外した。
だが、毒は少しだけ皮膚へ触れている。赤みが出る前に処置した方がいい。
ミナは杖を向ける。
「解毒補助を入れます」
「出た、便利な補助」
リタの声は軽いが、目は真剣だ。
ミナは短く息を吸った。
治癒式を立ち上げる。毒の刺激を広げないよう皮膚の表面で止める。指先の感覚を残し、痛みだけを少し抑える。同時に、リタの集中が切れないよう、目の奥の疲労をほんの少し支える。
強すぎない。
見えすぎない。
けれど、遅すぎない。
リタが手を握り開きした。
「赤みが引いた」
「まだ触らないでください。水で流してからです」
「ほんと、治療師みたいなこと言うね」
心臓が跳ねる。
ミナは返事をしない。
その代わり、セラの足首へ視線を向けた。
彼女は根の上からうまく斬っている。だが、あと二回踏み込むと右足に負担が溜まる。
「セラさん、次で下がって」
「でも、もう一匹」
「次で下がって」
ミナは繰り返した。
セラは唇を噛む。
「はい!」
剣が走る。沼蟹の脚を切り落とす。セラはすぐ下がった。
直後、彼女が立っていた根が、毒泡でぬめりを帯びて滑った。
セラは顔を青くする。
「止まってよかった」
「はい」
ミナは頷く。
治す前に止める。
それができるなら、治さなくて済む。
******
戦闘は、討伐というより誘導に近かった。
リタが小瓶を投げ、沼蟹の注意をそらす。ガイが正面ではなく斜めで流し、セラが足場の固い場所から脚を狙う。ミナは全員の呼吸、足、毒の流れを見て、止める場所と進む場所を指示する。
倒した数は多くない。
けれど、小さな出入り口らしき場所は見つかった。
枯れた木の根元。毒膜が濃く、泡が何度も弾けている泥の裂け目。少なくとも、採取路側を汚染していた毒の枝はそこから出ている。
ただし、泡の筋は奥へ続いていた。
ここが本体ではない。
ミナには、そう見えた。
「全部倒す?」
リタが聞く。
セラは剣を構え直す。
ガイはミナを見る。
その視線に、ミナは少し驚いた。
判断を求められている。
火力でも、討伐数でもなく。
帰れるかどうかの判断を。
ミナは沼を見る。
毒膜は濃い。風は変わり始めている。ガイの膝に小さな震え。リタの集中はまだ保っているが、手袋を失っている。セラの足首はぎりぎり。
「この出入り口だけ封じます。全滅は狙いません」
セラが息を吸った。
何か言いかけて、止める。
「……わかりました」
その返事に、ミナは胸が温かくなった。
リタが小さく笑う。
「成長したねえ」
「今言わないでください」
ガイが盾で沼蟹を押し流す間に、リタが油瓶を投げ、セラが枯れ木を切り倒した。ミナはガイの足元へ支援を入れ、沈みすぎないように負担を逃がす。
泥の裂け目が塞がる。
沼蟹の動きが鈍った。
「撤退します」
ミナが言うと、今度は誰も反対しなかった。
******
帰り道、誰も大きな怪我をしていなかった。
それでも、ミナは全員を止め、水で手袋を洗わせ、靴底の泥を落とさせ、口をゆすがせた。
セラは少し不満そうだったが、素直に従った。
「ミナさん、毎回細かいです」
「毒は細かいところから入ります」
「正論です」
リタが笑う。
「正論に弱いね、セラ」
「命に関わる正論は聞きます」
ガイが盾を下ろした。
「今回は、受けない方が楽だった」
ミナは彼を見る。
「盾役なのに、受けるなと言ってすみません」
「いや」
ガイは首を振った。
「受けるだけが盾じゃないとわかった」
セラが靴紐を結び直しながら、小さく息を吐いた。
「私は、まだ踏み込みたかったです」
正直な声だった。
悔しさも混じっている。
「あそこで斬れていたら、もっと早く終わったかもしれません」
「そうかもしれません」
ミナは否定しなかった。
勝てないと言ったわけではない。勝てても帰れない場所だった。そこを混ぜると、次の判断を間違える。
「でも、踏み込んだ後に足が抜けなかったら、セラさんを助けるためにガイさんが前へ出ます。リタさんは援護位置を変えます。私は毒の処置を増やします。その間に、別の沼蟹が動きます」
セラは黙って聞いていた。
「一人の一歩で、全員の形が変わります」
その言葉を言ってから、ミナは自分にも刺さるのを感じた。
ミナの嘘も同じだ。
一人の職業名で、全員の判断が変わる。
セラは剣の柄に触れ、ゆっくり頷いた。
「次は、踏み込む前に聞きます」
「毎回でなくて大丈夫です。戦闘中に全部聞いていたら、リタさんに怒られます」
「怒るね。質問時間は有料」
リタが即答した。
「いくらですか」
「揚げ菓子一本」
「安いですね」
「命に関わらない質問なら二本」
「高くなりました」
セラが真面目に悩み始める。
ミナは少し笑った。
笑える。
全員で帰れたからだ。
帰れなければ、こんなやり取りは残らない。
その言葉は、ミナの胸に深く入った。
役割は、一つではない。
ヒーラーも、ただ治すだけではない。
そう言いたいのに、今のミナはまだ言えない。
ミナは全員の手袋をもう一度確認した。
リタの手首に、毒泡がかすめた薄い赤みがある。すでに広がりは止めたが、完全に消えたわけではない。
「リタさん、今日中はその手で目をこすらないでください」
「こすらないよ。子どもじゃないし」
「眠くなると、無意識に触ります」
「なんでそこまで知ってんの」
「毒の時によくあります」
「毒の話なのに、なんか生活を見られてる気分」
リタは文句を言いながらも、手袋の紐を締め直した。
ガイの膝、セラの足首、リタの手首。
どれも大怪我ではない。
だからこそ、報告書には負傷なしと書かれる。
でも、ミナの目には全部残る。
消えない小さな危険として。
「ミナ」
ガイが呼んだ。
「はい」
「報告には、その小さいのも書くか」
ミナは少し迷った。
書けば、また目立つ。
負傷なしで済ませれば、楽だ。
でも、次に同じ湿地へ入る人が、その記録を見るかもしれない。
「書きます」
ミナは答えた。
「リタさんの手首、セラさんの足首、ガイさんの膝。全部、次の人には必要な情報です」
リタが肩をすくめる。
「次の人って、あたしたちかもしれないしね」
「はい」
記録は嘘を重くする。
でも、記録しない安全はもっと嘘だ。
ミナはその重さを、報告書ごと持ち帰ることにした。
胸の中で、紙の角が少し刺さるようだった。
ギルドへ戻ると、ラウラが報告書を確認した。
「討伐数は少ないですが、外縁部の発生源の特定と封鎖。全員軽微な汚染のみ。負傷なし」
彼女は記録板にペンを走らせる。
「奥地側へ泡の筋あり、継続調査推奨。ここも書いておきます」
ラウラのペン先が、余白に短い線を引いた。
その一行が、ただの報告以上に重く見えた。
「負傷率が、また低いですね」
褒め言葉に聞こえる。
でも、ミナには警告にも聞こえた。
その少し後、検証室の奥で、一人の青年が報告書を読んでいた。
銀灰色の髪。細い眼鏡。魔術師組合の紋章が入った指輪。
彼はミナの名前の横に記された術式報告を見て、静かに眉を寄せる。
「補助魔術で、毒の拡散を抑えた……?」
紙をめくる音が、やけに静かに響いた。
「妙ですね」
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