第14話 湿地に沈む足跡
依頼当日の午前、ミナたち四人が着いた毒沼は、思っていたより静かだった。
水面は濁った緑色で、風が吹いても大きく揺れない。ところどころに細い草が伸び、白い花が湿った空気の中で小さく開いている。虫の羽音はある。鳥の声は少ない。
静かすぎる場所は、危ない。
ミナは沼の入口で足を止めた。
鼻を刺すほどの毒臭はない。けれど、水面に薄い膜が浮いている。光を受けると虹色に見える、油のような膜。その下に、じわじわと体を重くする毒がある。
吸う毒ではない。
触れて、染みて、冷えと一緒に体力を削る毒だ。
「ここから先、靴を濡らさないでください」
ミナが言うと、セラがすぐ足元を見た。
「濡らしたら毒ですか?」
「すぐ倒れる毒ではありません。でも、長く歩くと足が重くなります」
「地味に嫌なやつだ」
リタが言う。
「はい。地味に嫌なやつです」
ミナが真面目に返すと、リタは少し笑った。
ガイは大きな盾を背負い直している。沼地では盾が重い。鎧の内側に湿気がこもれば、体温の調整も難しくなる。
「ガイさん、汗をかいたら早めに言ってください」
「汗?」
「鎧の中が冷えると、力が抜けます。自覚した時には遅いことがあります」
「わかった」
ガイは疑わずに頷いた。
それだけで、ミナの胸が少し楽になる。
リタはすでに前へ出て、木の根や草の倒れ方を見ていた。
「足跡、ある。古いのと新しいのが混じってるね。こっちは採取者。こっちは冒険者っぽい」
彼女の目は鋭い。
でも、ミナには別のものが見えた。
深く沈んだ足跡。
踏み込んだ時に、体重が片側へ偏っている。疲れている人の歩き方だ。足を引き抜くたびに、膝と腰へ負担が残る。
その足跡が、途中から乱れている。
隊列が崩れた場所。
紅蓮の剣の記録にあった言葉が、頭に浮かぶ。
判断遅れによる隊列崩れ。
ミナはしゃがみ込んだ。
「ここ、長く立ち止まっています」
リタが隣に来る。
「足跡でわかる?」
「足跡というより、足が沈みすぎています。止まっている間に体重が抜けなくなったんだと思います」
「あんた、足跡じゃなくて、足が壊れる場所を見てるよね」
リタの声は軽い。
でも、言葉は真ん中を刺してきた。
ミナは少しだけ黙った。
「壊れる前に見たいので」
「補助魔術師って、そういうこと言う職業だっけ」
「私のは、そういう補助です」
逃げた。
まただ。
リタはそれ以上追わなかった。ただ、ミナの横顔を少しだけ見て、前へ歩き出した。
******
湿地の奥へ進むほど、空気は重くなった。
足元は固そうに見えても、踏むとじわりと沈む。草の下に水が隠れている。枝に引っかかった花粉は白く、風が吹くたびに細かく舞った。
セラが何度も剣の柄に手をやる。
緊張している。
実績が欲しい気持ちもある。けれど毒蛾の件で、前に出すぎる怖さも覚えた。進みたい自分と止まるべき自分が、体の中で押し合っている。
ミナは彼女の呼吸を見た。
少し早い。
「セラさん、肩を下げてください」
「はい」
「剣を抜くのは、リタさんが合図してから」
「はい」
「返事が早い時ほど、前に出る準備をしているので気をつけてください」
「ばれてます?」
「ばれています」
リタが前で吹き出した。
「セラ、完全に読まれてる」
「ミナさんが細かすぎるんです」
「褒め言葉だよ、それ」
軽口が湿った空気を少しだけ軽くする。
ミナはその間にも、全員へ薄い支援を入れていた。ガイには体温低下を抑える補助。リタには集中の揺れを戻す補助。セラには呼吸の拍を整える補助。
ほんの少し。
気づかれない程度。
けれど、リタが振り返った。
「ねえ、今、目が楽になった」
ミナの指が止まる。
「湿気に慣れたのかもしれません」
「あたし、湿気にそんな素直な目をしてない」
リタはにやりと笑った。
ミナは返事に困る。
ガイが短く言った。
「助かってるならいい」
「ガイは雑だねえ」
「生きて帰るには、雑でも使えるものは使う」
その言葉に、ミナは胸の奥が少しだけ温かくなった。
使えるもの。
便利なもの。
それでもいいのだろうか。
いつか、本当の名前を言うまでは。
******
沼の中ほどで、リタが手を上げた。
「止まって」
全員が止まる。
彼女は木の根元を指した。そこに、破れた革手袋が引っかかっている。泥で汚れているが、切れ目は新しい。
ミナの胸が嫌な音を立てた。
手袋の縫い目に、赤い糸が使われている。
カミラの装備に似ている。
紅蓮の剣の弓使い、カミラ・レイン。彼女は矢羽や手袋の補修に、よく赤い糸を使っていた。地味な黒革に、少しだけ色を入れるのが好きだと言っていたことがある。
「知ってるもの?」
リタが聞く。
「似ているだけかもしれません」
「そういう言い方は、だいたい知ってる時の言い方」
ミナは手袋を拾わず、周囲を見る。
足跡が乱れている。右へ流れ、左へ戻り、そこで深く沈む。誰かが足を取られた。別の誰かが引き上げた。戦闘の跡は少ない。つまり、魔物に襲われたというより、疲労と足場で崩れたのだ。
負傷者なし。
そう記録されていた。
でも、これは無傷ではない。
手首をひねったかもしれない。肩を痛めたかもしれない。毒を吸ったかもしれない。記録に残らない傷は、ここに沈んでいる。
少し先で、折れた矢を見つけた。
矢羽の形は、やはりカミラのものに似ていた。
セラが不安そうに聞く。
「旧パーティの人たち、危なかったんですか」
「たぶん」
ミナは正直に答えた。
「大怪我ではなかったと思います。でも、無傷ではありません」
ガイが沼の奥を見る。
「進むか」
「進みます。ただし、ここからは撤退線を決めながら」
ミナは地面を見た。
固い場所。沈む場所。毒膜の濃い水。風向き。全員の呼吸。
全部を頭に入れる。
補助魔術師としてではなく。
ヒーラーとしてでもなく。
仲間を帰すために。
ミナは腰の袋から、小さな布切れを取り出した。赤ではなく、薄い青の布だ。湿地の枝に結ぶと、帰り道の目印になる。
「ここを一つ目の撤退目印にします」
「ずいぶん手前ね」
リタが周囲を見回した。
「まだ魔物の気配、濃くないよ」
「濃くなってから決めると、遅いです」
ミナは布を結びながら答えた。
「帰る時は、来た時より疲れています。毒も少し吸っています。荷物も増えているかもしれません。だから、元気な時に戻る場所を決めます」
セラが真剣な顔で頷いた。
「なるほど。元気な時の自分が、疲れた時の自分を助けるんですね」
「はい。すごくいい言い方です」
「本当ですか」
「本当です」
セラの目が少し明るくなった。
リタがにやりとする。
「セラ、褒められて伸びるタイプ」
「伸びます」
「素直」
短いやり取りの間にも、ミナはガイの歩幅を見ていた。
鎧の重さで、泥に沈む深さが左右で違う。右足の方がわずかに深い。盾を持つ側の癖だ。今は問題ない。けれど帰りには膝へ響くかもしれない。
「ガイさん、右足を少し外へ逃がしてください」
「こうか」
「はい。あと、盾は今の位置より低く」
「敵もいないのにか」
「敵が来てから変えると、足場が沈みます」
ガイは文句を言わず、盾の位置を下げた。
重い金属が小さく鳴る。
その音が、ミナには信頼の音に聞こえた。
リタがちらりとこちらを見る。
「あんた、ほんとに人の足ばっか見てるね」
「足は大事です」
「知ってる。歩けないと帰れないもんね」
軽い声なのに、核心だけは外さない。
ミナは曖昧に笑った。
その時、風が止まった。
羽虫の音が薄くなる。
ミナはすぐに手を上げた。
「全員、止まってください」
四人の足が止まる。
ガイは盾を少しだけ前へ出し、セラは剣の柄に手を添えた。リタは短剣ではなく、腰の試験紙を抜く。
「毒?」
「濃くなっています。でも、水だけじゃありません」
ミナは空気を吸いすぎないよう、浅く息をした。
湿った草の匂いに、甘い腐臭が混じっている。毒草の花粉だ。水面だけを警戒していると、上から入る。
「布を口元に。濡らしすぎないでください。濡れた布は花粉を吸いすぎます」
「細かい」
リタが言いながらも従う。
セラは慌てて布を強く濡らそうとして、ミナの視線に気づき、手を止めた。
「濡らしすぎない、ですね」
「はい」
ガイの呼吸が重くなりかけている。鎧の中に湿気がこもり、体が熱を逃がせていない。ミナは支援を入れたくなったが、まだ早い。
今は魔力で押すより、歩き方を変えた方がいい。
「ここから十歩、会話を減らします。息を使いすぎないでください」
リタが指で丸を作る。
珍しく黙った。
十歩。
たった十歩なのに、湿地では長い。
足を上げるたび泥が吸い、下ろすたび水が滲む。草の陰から小さな泡が浮き、消える。
ミナは数を数えた。
一、二、三。
セラの肩が少し上がる。
四、五。
ガイの右膝が沈む。
六。
リタの目が左へ走る。
七。
何かがいる。
まだ姿は見えない。
でも、湿地の呼吸が変わっていた。
奥の水面が、不自然に揺れた。
枯れた木の根元で、泥が小さく割れている。
穴、というには浅い。
けれど、そこから緑がかった泡が一定の間隔で浮かんでいた。自然に湧く泡ではない。何かが下で呼吸しているような、妙にそろった泡だった。
その泡の筋は、採取路の方ではなく、さらに沼の奥へ細く続いている。
「出入り口、かな」
リタが小さく呟いた。
ミナは頷きかけて、喉の奥が冷えるのを感じた。
ここが全部ではない。
少なくとも、そんな気がした。
ぶくり、と毒の泡が一つ弾ける。
リタが短剣を抜いた。
「来るよ」
沼の中から、小さな甲殻を持つ魔物が何匹も這い出してきた。
ミナは戦う前からわかった。
この足場は、ガイの膝に向いていない。
セラの足首にも、向いていない。
勝てるかどうかではない。
帰れるかどうかだ。
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